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XVII.アメリカ・ツアー

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著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・プロ・ムジカからの招待
・契約
・ケンブリッジでのコンサート
・ニューヨーク・デビュー
・ジャズについてのラヴェルの見解
・シカゴ響とのコンサート
・帰国

 1922年にラヴェルは、フランス系アメリカ人の著名なピアニスト、E.ロバート・シュミッツにフランコ・アメリカン・ソサエティの委員会のメンバーにならないかと誘われた。当時ラヴェルは『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』の作曲をしていた。ラヴェルはシュミッツ氏にこう返事を書いた。

あなたから手紙が届いたとき、ちょうど『ヴァイオリンとチェロのためのソナタ』の作曲を(大変な思いで)終えたところでした。これを完成するのに1年半近くかかりました。ほんの2、3日前に終えたところで、ちょっとした休暇がとれます。間に合うのであれば、あなたのフランコ・アメリカン・ソサエティの委員会のメンバーに喜んで参加しましょう。

 フランコ・アメリカン・ソサエティは後に、プロ・ムジカへと発展した。プロ・ムジカはあらゆる国の同時代の音楽を提供する組織で、アメリカの主たる都市に支部をもっていた。プロ・ムジカの代表であるシュミッツ氏は、ここ数年の間、この組織の支援のもと、ラヴェルをアメリカに呼んで、作品を演奏する機会をもとうとしてきた。しかしラヴェルはいつもこれを断ってきた。「わたしはピアニストじゃないから」と言い、彼独特のユーモアを交えて、「サーカスみたいに人目にさらされるのは構わないとしてもね」と返した。
 1926年、シュミッツ夫妻はラヴェルの住むモンフォール=ラモーリーへの旅を決行し、再度ラヴェルを促した。ラヴェルは興味を惹かれなかったものの、いつものように礼儀正しく、気の置けない態度を崩すことはなかった。「ルヴェルー夫人(ラヴェルの家のハウスキーパー)があなた方のために特別な料理を用意してますから」と勧めたので、シュミッツ夫妻はベルヴェデール(ラヴェルの家の愛称)での昼食の誘いに応じることにした。二人はラヴェルの仕事の邪魔をしたくなかったのだが……

 昼食後、シュミッツ夫妻は再び、別れを告げようとした。「だけど、わたしのところの庭を見なくては」 そうラヴェルが主張した。結局のところ、夫妻は午後遅くまでいることになり、さらにパリまでラヴェルも同行することになった。パリに着くとみんなで食前酒を飲もうとカフェ・ド・ラペに行った。そこでまた、アメリカ・ツアーの話が再燃した。
 「アメリカで一儲けするのはどうです」とシュミッツ氏。
 ラヴェルは肩をすくめた。「あり得るかもしれないし、あり得ないかも……」 そう答えた。
 シュミッツ氏はそこでこんな提案をした。
 「もしわたしが 1万ドル(現在の価値で1500〜2000万円くらい)を保証したら?」
 ラヴェルは目を見開いた。
 「1万ドルだって? 3ヶ月のツアーで? そりゃ大金だ!」
 「最低でもです」とシュミッツ氏。「もっと稼げるかもしれない。アメリカにはプロ・ムジカの15の支部があります。そこから5000ドルの収益を見ています。他のところもそれに続くでしょう。全額を保証しますよ」
 ラヴェルは魅了された。しばらく考えた後に、ラヴェルはアメリカに行くことに同意した。ラヴェルがビジネスに疎いことを知っていたシュミッツ氏は、その他の拘束義務について確認した。
「他の誰ともアメリカでのコンサートを契約していませんね?」 そう尋ねた。
 ラヴェルはこの点についてはっきりしないところがあったが、それはないと思った。ダニエル・メイヤーがイギリスでのマネージャーをしていたが、アメリカとの関係は何もなかったはずではないか? 調査をした結果、イギリスでの契約には、「すべての英語を話す国」との条項が含まれていることがわかった。
 しかしながら最終的に、メイヤーは、ラヴェルのアメリカ・ツアーを1000ドルで放棄するよう説得された。
 その翌日、ラヴェルはシュミッツに宛てて、アメリカ行きの意向の確認の手紙を送った。

                           ベルヴェデール
                      モンフォール=ラモーリー
                           1926年5月29日

パリ、シャン・ド・マルス公園 3 
シュミッツ夫妻宛て

親愛なる友人に
 昨日、こちらで話し合ったことをお伝えします。
 あなたがダニエル・メイヤーとの契約のいくつかの項目から、わたしを自由にしてくれるなら、カナダを含む北米ツアーに、あなたが選んだマネージャーとの間で、以下の条件を認めます。
 わたしは、2ヶ月間のツアー(1927〜1928年シーズン)として、平均週2度のコンサートを限度として、最低1万ドルを受け取ること。
 それに加えて、もしこの契約が少なくとも最低1万ドルと条件通りのツアー日数であれば、1926年6月1日から1927年2月1日までの間(あなた、またはあなたの代理人と、最終日については最終契約で署名)、これらの国(米国、カナダ)におけるその他の申し出を受けないことをこの手紙にて賛同します。
 しかしながら、このプロジェクトの進行についてあなたは、わたしにそのときどきの状況を通知してください。

                         モーリス・ラヴェル

 シュミッツ夫妻はプロ・ムジカからの5000ドルは確信していたものの、残りの金額を都合する義務があった。有能なシュミッツ氏の妻、ジャーメインはこの金額を得るために、面倒が少ないと思えるプランを考え出した。アメリカに帰ると、ジャーメインはボストンに出向き、ピアノ製造会社のメイソン・アンド・ハムリンのトップと会見した。
 「モーリス・ラヴェルが来年、プロ・ムジカの招待でアメリカにやって来ます。このツアーの間、彼が、あなたのところのピアノのみをステージで使用したら、利益があるんじゃないでしょうか?」
 パデレフスキー(ポーランドのピアニスト、1860〜1941年)がツアーで使用したことで、スタインウェイ社は数百万ドルの取り引きに成功していた。それで主要なピアノ製造会社は、自社の楽器を著名なピアニストに推薦してほしいと願っていた。ヘンリー・メイソンは、このようなラヴェルとの協定は、自社の宣伝におおいに役立つと考えた。そしてメイソンは、モーリス・ラヴェルが自社のピアノを推薦し、独占的にツアーで使用することに、5000ドル支払うことに乗り気になった。
 
 アメリカ・ツアーにおけるすべての障害が解決されたと思われたとき、突然、ラヴェルは非常に重要なことを思い出した。「わたしのタバコはどうする?」 そうラヴェルは尋ねた。「わたしにとって、カポラルがどれほど大事か、ご存知ですよね」
 ラヴェルは大変なヘビースモーカーで、3ヶ月分のタバコをアメリカに持ち込むとなると、かなりの関税額を支払うことになる。そこで特別の計らいによって、アメリカのあるタバコ会社が、フランスで製造されているカポラルと同じ原料とブレンドで、特別製のタバコをつくることに同意した。またツアー中に飲む、ラヴェルの好きなフランス・ワインも調達されることになった。

 ラヴェルは1927年もあと数日というときに、フランスを発った。そして1928年1月4日にニューヨークに到着した。自分の到着を広く知らせたくなかったラヴェルだったが、港に着いたときには、新聞記者たちが待ち受けていた。それ以降、ラヴェルは常に、熱狂的なファンの真ん中に置かれるはめになった。宿泊するホテルには、電話や電報、昼食や夕食への招待、お茶やら花束やら手紙やらが押し寄せた(ホテルの受付やシュミッツ夫人は、メッセージを伝えたり、通訳したりで忙しく立ち働いた)。こういったすべてが、内気で控えめな男をおおいに困惑させた。幸い、ラヴェルにはユーモアのセンスがあり、それがこうした混乱から身を守る手立てとなった。またラヴェル自身、驚いたことに、多くの注目を集めることにむしろ喜びを感じるようになっていた。

大西洋横断をするフランス号
フランス号一等船室のホール(1912年)

 シュミッツ夫人はラヴェルの荷をとくのを手伝ったが、その持ち衣装の多さに驚いた。「モーリス・ラヴェルの衣装持ちにはびっくりだわ!」 そしてこう言った。「パジャマが20着、色とりどりのシャツが何ダースも、そしてチョッキ、さらに大量のネクタイ!」 ラヴェルはといえば苛立っていた。出発直前に到着した夜会用のネクタイが、どれも1cm以上長すぎた。シュミッツ夫人が自らその手直しをした。なんと57本ものネクタイがあった。

 ラヴェルはニューヨークのそびえ立つ摩天楼や峡谷のような街の通りにすっかり圧倒された。街を歩き、その道筋でウィンドウショッピングすることに狂喜し、夜遅くになると人通りが絶えることに驚いた。ラヴェルはいつも(夜会服を着ているときでさえ)、短い丈の古めかしい黄色いオーバーコートを着て、白いもこもこしたウールのマフラーを巻き、それに白いウールの手袋をはめていた(アメリカの寒さに慣れることができなかった)。その格好で歩くラヴェルは「道ゆく車を止めた」と、エヴァ・ゴティエー(メゾソプラノ歌手、教師:ラヴェルの歌曲をアメリカで初演している)は語っている。
 ラヴェルはアメリカで目にした優れた機械設備に目を奪われていた。そしてアメリカの水道設備に驚嘆した。自分の住むフランスの片田舎モンフォール=ラモーリーに、そのアイディアを持ち帰り、ベルヴェデール(自宅)にそれを設置した。
 ニューヨークに到着した晩、ラヴェルはロキシー・シアターに連れていかれ、ここでもびっくりすることが起きた。そこでテルミンの発明による電子楽器(当時は新しかった)を目撃したのだ。それは電波を手の動きでコントロールすることで、音楽が生み出されるというもの。

その数日後、カーネーギーホールでボストン交響楽団をクーセヴィツキー(ロシア出身のアメリカの指揮者、1874〜1951年)が指揮し、トーマス・エジソン夫人が名誉ゲストとしてラヴェルをコンサートに招待した。
 クーセヴィツキーはラヴェルの作品をいくつも演奏し、それを終えると、エジソン夫人のボックス席に向いて、名誉ゲストを指揮棒で指し示した。モーリス・ラヴェルがそこにいることに気づくと、聴衆に大きなざわめきが起きた。全員が立ち上がり、手をたたき、口笛を鳴らし、手にしていたプログラムを宙になげた。ラヴェルは立ち上がってお辞儀をしたが、歓呼する聴衆はこれでは満足しなかった。クーセヴィツキーはラヴェルに舞台に上がるよう促すと、そこでラヴェルは10分以上にわたる熱烈な歓迎を受けた。

 ラヴェルはクーセヴィツキーにボストンに招かれ、1月12日に、ハーバード大学でオーケストラの指揮をするよう頼まれた(これがアメリカでのラヴェルの初めての公式の登場となった。というのも、ニューヨークで行われるオープニング・コンサートは、1月15日だったので)。ボストン交響楽団のメンバーは、ラヴェルがブルーのシャツに空色のサスペンダーで最初のリハーサルに現れると、言葉で表せないほど興奮した、と言われる(2度目のリハーサルには、ピンクのシャツにそれに合うズボン吊りだった)。
 ハーバード大学でのコンサートについて、ボストンの著名な批評家、H.T.パーカーは次のように書いた(1928年1月13日、ボストン・イブニング・トランスクリプトの記事)。

 常連の「大学の聴衆」がラヴェルを待ち受けていた。彼らはこれから何が始まるか知っていた。チケットを求める客が、ロビーに長々と列をつくっていた。舞台の上にあるギャラリーに席を得た若い学生たちが、手すりから身を乗り出していた。レコードで聴くだけでなく、今ここで、作曲家自身の指揮による音楽を耳にできるのだ。ラヴェルの譜面台には、真紅のバラで飾られた緑のリースが掛けられていた。
 最初の一目で、ムッシュー・ラヴェルの本性は知れ渡ったようだ。舞台への階段を登るとき、このフランスの作曲家はからだを前傾し、うつむいていた。この身振りで、この男がいつも長い時間、デスクに向かって仕事していることが、あるいはピアノに向かって精を出していることが知れた。オーケストラや聴衆に顔を向けているときだけ、からだを起こしているのだ。そして次に、ラヴェルの背の低さとほっそりした体躯が認められた。日に焼けた(車の時代になっても、ラヴェルは戸外を歩くので)、わし鼻の顔。高々とした鼻に鋭く敏感な目、そして白髪混じりのフサフサした髪を頭に乗せていた。
 服装、態度、落ち着きは、彼が作曲を職業とする(ときに指揮もする)世界の男であることを示していた。ムッシュー・ラヴェルはいっときも、その威厳を崩すことはなかったが、ステージに出ていくとき入るときには、ラテン的な敏捷な動きで、楽団員の誰かれに笑顔を見せ、言葉をかけていた。

 ケンブリッジでのコンサートのプログラムには、『クープランの墓』、『スペイン狂詩曲』『シェヘラザード』(ソプラノ:リサ・ローマ。ラヴェルのアメリカ・ツアーに参加していた)、さらにドビュッシーの楽曲からの編曲作品『ダンス』『サラバンド』、そして最後に『ラ・ヴァルス』が含まれていた。この『ラ・ヴァルス』は聴衆に大きな感動を与えた。この作品はすでにアメリカでよく知られていたが、作曲家自身による指揮で新たな意味と活力が加えられた。

ハーバード大学サンダースシアター(1876年)

 ラヴェルのニューヨーク・デビューは、プロ・ムジカの管理下で1月15日、ギャロ・シアターで行なわれた。小さな劇場(音響も悪かった)に満員の客が押し寄せ、大きな成功を収めた。ラヴェルが驚いたことに、多くの客が舞台上の席にすわっていた。プログラムには何人かの著名な演奏家の名があった。バイオリン奏者のヨーゼフ・シゲティ、ハープ奏者のカルロス・サルセード、フルートのアーサー・ロラ、チェロのホレス・ブリット、クラリネットのアンリ・レオン・ルロア、そしてカナダのハート・ハウス・カルテットなどである。プログラムの最初は、ラヴェルの弦楽四重奏曲で、次にラヴェル自身のピアノ演奏により『ソナチネ』(アンコールとして『ハバネラ』と『亡き王女のためのパヴァーヌ』を弾いた)、さらにグレタ・トーパディが歌う『博物誌』と『マダガスカル島民の歌』を伴奏した。そして『序奏とアレグロ』(ハープとフルート、クラリネットおよび弦楽四重奏のための七重奏曲)でコンサートは締められた。

 最も聴衆に受けたのが、最近完成された『ヴァイオリンとピアノのためのソナタ』(ヴァイオリンソナタ2番)で、ラヴェルとシゲティによって演奏された。この作品はアメリカの聴衆にとって、未知の曲というわけではなかった。ベートーヴェン協会のコンサートで、マイラ・ヘスとイェリー・ダラーニによって少し前に演奏されたばかりだった。しかし批評家たちは、この楽曲をもっと間近に研究する機会を得て喜んだ。このバイオリンソナタは、聴きやすいという作品ではない。ピアノの変イ音にバイオリンのト音と、隣り合う二つのキーがぶつかる、耳慣れない不協和音があり、それに耳がついていくのが難しかった。最終楽章は典型的な「ブルース」スタイルだった。(訳注:第2楽章の間違いと思われる)
*以下の動画は第2楽章「ブルース」よりスタート(全第3楽章)

 多くの聴衆が、真面目な楽曲の中の「ポピュラー」的な感覚をおおいに楽しんだ。しかしラヴェルは何か面白いことを意図していたわけではなかった。ラヴェルにとってジャズは、クラシック作品に適した真の素材であると信じており、アメリカ人の作曲家たちが刺激に満ちた豊かで活気あるこの音楽の水源をあまり活用していないことに驚いていた。ラヴェルにとってのジャズは、パリのナイトクラブの黒人オーケストラの経験が元になっていた。どのモデルを利用する場合もそうであるように、ここでもラヴェルは、ジャズのもつ本質的な風味は残しつつ、すっかりラヴェル風にアレンジしていた。

 ラヴェルにとってジャズは、近代クラシック音楽への最も重要な貢献であり、スペインの舞曲やハンガリーの狂詩曲、ロシア民謡と同様、一つの様式と認識していた。ラヴェルはジャズの始まりを、スコットランドの古いメロディにまでたどり、さらに18世紀のフランスやイタリアの民謡に含まれているリズムが、ジャズを予感させるとまで主張していた。アメリカの音楽には、多くの異なる出自の素材が持ち込まれており、ちょうどアメリカ人が様々な国籍の人々を一つにして国民を形成しているように、この国の音楽も多様な影響を受けてそれをブレンドし、まったく新しい独自の音楽を生み出している、それは見下されるようなものではない。ラヴェルは、ジャズは二つの異なるものによって成立していると強く主張していた。哀感や哀調(弾圧された黒人奴隷の声であり、そこにはヨーロッパ系アメリカ人が理解できない、彼らの願望が隠されている)をベースにしつつ、世界を支配しようとしている「新しい(大陸の)人々」の尊大な権力思考がある、と。
 ギャロ・シアターでのラヴェルのコンサートについて、ニューヨークタイムズの著名な批評家、オリン・ダウンズはこう言っていた。

 ラヴェル氏は、ピアノの名演奏家のような振る舞いはしませんでした。彼がやったのは、作曲家である自分がコンサートの場にいて、ピアニストとして自分の作品を明快に解説することでした。彼の音楽的な技量の高さは、精密さと味わい深さに現れています。これは作曲家のもつ芸術性の証です。素材を扱うときの熟練度、異なる音楽的アイディアを完璧に表現する視点、非の打ちどころのない構造と様式。その作品は、今日のパリのあちこちで流行っている見せかけばかりの、芸術に対する表面的な態度を戒めています。
 ほっそりとした、貴族的な白髪混じりの控えめな紳士ということ以上に、音楽の的確さ、無駄のなさ、洗練は彼を表す典型的なものです。ラヴェル氏はこのような簡潔さを備えています。音楽において、彼特有の控えめで節度あるところを見せています。この作曲家は、自分が成したことを説明し、聴き手にその理解をゆだねることに満足しています。そして実際に、作品がすべてを語っているのです。
 ラヴェルが急ぎ足で作曲することは決してありませんでした。未完成の曲を聴衆に差し出すこともなかった。知覚が鋭く、観察者としての豊かな経験をもち、一つの要素を見事なアートの形につくりあげ、フランスの伝統の真髄を具現化することを目標としていました。

 プロ・ムジカのコンサートのあと、ラヴェルはその名声によって、コビーナ・ライト夫人(アメリカのオペラ歌手、女優、1887〜1970年)の盛大なパーティでもてなされた。夫人のパーティは、当時ニューヨークの音楽界や文学界で有名だった。ライト夫人は数百人のゲストをラヴェルに会わせるために招いていた。そこには批評家、ニューヨーク・フィルハーモニックのパトロンたち、ウォルター・ダムロッシュ(プロイセン出身のアメリカの指揮者)、ハイフェッツ(ロシア出身のバイオリン奏者)、シャリアピン(ロシア出身のオペラ歌手)、その他メトロポリタン歌劇場の歌い手たちなどが含まれていた。ラヴェルがジャズに関心があることを知って、ライト夫人は、ホール・ジョンソン(黒人霊歌で知られるアメリカの作曲家、1888〜1970年)と17人のネグロ・ジュピリーの歌い手たちとダンサーを呼んで、晩餐前の1時間あまり、お客をおおいに楽しませもした。
 
 アメリカに到着して間もなくのこと、ラヴェルはユダヤ人であるという報道によって、ちょっとした出来事がもちあがった。その報道はその後も繰り返されている。ニューヨークでの2度目のコンサートのとき、数人の客がラヴェルにあいさつにやって来た。「あなたはもちろん、ユダヤ人なのでしょう?」 その中の一人が尋ねた。ラヴェルは最初、何を聞かれているのか理解できなかったが、それが通訳されると、こう答えた。「宗教的観点からいって、わたしはユダヤ人ではないです。わたしは無宗教ですから。民族的な観点からいっても違います。わたしはバスク人なので」
 「バスク人とはなんです?」 そう訊かれた。
 「これを説明するのは難しいですよ」 ラヴェルはにっこり笑って答えた。「バスク人というのは未知の民族です。どこが発祥の地か誰も知りません。ジプシーのように見えて、また流浪の民のようなところもあります。しかしもう何世紀もの間、彼らはフランス南部に定住してきました」 ラヴェルは人々にこう付け加えた。「ユダヤ人であることを嫌だなどと思ってません、でもユダヤ人じゃありません」

 メイソン・アンド・ハムリンはラヴェルのホテルにピアノを届け、ツアーに1台提供するだけでなく、運搬人、通訳、アシスタントも兼ねた調律師を送り込んでいた。この多芸な調律師は、ニューヨークからシカゴに向かう20世紀特急で、ラヴェルと合流することになっていた。ところが最後の最後に、雪嵐のため列車に乗り遅れた。ラヴェルはその日、パウル・コハンスキー(ポーランド出身のバイオリン奏者、1887〜1934年)の昼食会に招かれていた。そこにはラヴェルの親しい友人たちがたくさん出席しており、いつものように、ラヴェルは時間のことをすっかり忘れていた。もし友人たちがはたと時間のことに気づかなかったら、そして急いで駅に送り込まなかったなら、ラヴェルも列車に乗り遅れていた。乗車時間ギリギリに、ラヴェルと友人たちは駅に着いた。そして列車が駅を離れるというときに、大事な調律師、兼通訳、兼運搬人がいないことに気づいた。
 これは大変! どうしたらよいものか。モーリス・ラヴェルは英語がまったく話せない。食事の注文すら自分でできないのに。友人たちが駅長のところに走り、この窮地を説明した。駅長はあまり臨機応変な人物ではなかったが、最終的にはエジソン夫人の尽力で、すべては丸く収まった。オールバニーに長距離電話をかけ、調律師兼通訳を駅まで運び、シカゴまで連れていくことができた。その間に、列車の添乗員に電報が送られ、ラヴェルの夕食が注文された。「ラムチョップにサヤインゲン、それからコーヒー….」

 ラヴェルの訪れた多くの街の中でも、シカゴではさらなるパーティ、さらなる熱狂的な聴衆、さらなるワインや晩餐があった。そこでラヴェルは、アドルフ・ボルムとその妻と再会した。ボルムは『ダフニスとクロエ』でドルコンを踊ったダンサーだった。ラヴェルのアメリカ訪問を目一杯楽しいものにしたいと願い、一番したいこと、見たいものは何かとボルムは尋ねた。ラヴェルはノース・ショアにあるエレガントな家の一つを訪問したいと答えた。
 シカゴの社会的リーダーの一人が、喜んで、この名高いフランスの作曲家をゲストとして招いた。彼女は手をかけた昼食会を準備し、たくさんの執事や召使いたちが仕え、ロブスターからひな鳥までのご馳走がテーブルに並んだ。しかしながらラヴェルは食べ物にほとんど手を触れず、コースが進むにつれて会話も途絶えていった。昼食が終わると、ラヴェルは頭痛を訴え、礼儀正しくお辞儀をしてお礼を言い、宮殿のような屋敷を出ていった。
 「近くの薬局に寄りたい」 ラヴェルは一緒にいた友人に頼んだ。「それから、ホテルにおいしい食事を用意するよう電話してほしい」
 「食事を?」 その友人は不思議そうに尋ねた。「でも今、昼食をとったばかりでしょう……」
 「あれを昼食と呼ぶのかい?」 ラヴェルはいらだたしげに答えた。「人が食べられるものは一つもなかった。肉は一つもなし。わたしが肉食動物であることは誰もが知ってる」 ラヴェルは小さな子どもが、何故、みんなが自分の性格を理解しないのかわからないとでもいうように、付け加えた。
 
 ラヴェルがシカゴ交響楽団で指揮をする晩、大きなホールの席は埋めつくされていた。聴衆は著名なフランスの作曲家の音楽を聴くことに大いに期待を膨らませていた。楽団員が席に着いた。みんなの準備が整い、期待が高まった。ところが指揮台のところは空っぽのまま。10分、15分、そして20分が過ぎた。もう数分で9時になるというとき、小さな男が完璧な装いで登場し、緊張気味ではあるものの笑顔を見せつつ、聴衆にお辞儀をした。遅れた理由となった、困った出来事があったことを知っている者はわずかだった。起きたこととは次のようなことだった。
 ラヴェルがコンサートのために着替えをしているとき、正装用の靴が、駅に送ったトランクの中に入っていることに気づいた。これは大変な災難だった。普段用の靴をはくか? とんでもない! モーリス・ラヴェルは完璧な装いでなくてはならず、そうでなければ聴衆の前には出られない。その騒ぎのさなか、ラヴェルの曲を歌うローマ夫人が駅まで行って、その大事な靴を取ってくると申し出た。ローマ夫人はタクシーに飛び乗り、駅まで行くとトランクの中をかきまわして靴を取り出し、ホールまで戻ってきた。その夜のコンサートは無事迎えられた。

 ラヴェルはアメリカで31回、自ら演奏し、その内の5回はニューヨークでのものだった。ラヴェルはボストン、ニューヨーク、サンフランシスコ、クリーブランドを含むいくつもの交響楽団でゲスト指揮者を務めた。またプロ・ムジカの企画で、フィラデルフィア、デトロイト、セントルイス、カンサスシティ、ヒューストン、セントポール、デンバー、ポートランド、シアトル、バンクーバー、ロサンゼルスでも指揮をした。

クリーブランド管弦楽団との共演時のプログラム(メソニック・ホール、1月26日、27日)

 南カリフォルニアは、中でもラヴェルが気に入った場所だった。ハリウッドに招待され、映画スタジオに連れていかれた。そこでジョン・バリモアやダグラス・フェアバンクス・シニアと写真を撮った。ラヴェルはカリフォルニアの花々やパームツリーに感嘆し、友人のバイオリン奏者、エレーヌ・ジュルダン=モランジュに手紙を書いた。

1928年2月10日。ロサンゼルスできみの手紙を受け取った。35℃から40℃もある。パームツリー、通りに沿って温室があって……素晴らしい街、心地いい国、でも人々の歓迎に疲れてしまった。ロサンゼルスでは群衆からわたしは逃れた。その上、空腹で死にそうだよ。

 ラヴェルはカリフォルニアの温かな気候を離れることを残念に思った。ニューヨークに戻るとき、エレーヌ・ジュルダン=モランジュに再度、手紙を書いている。

1928年2月29日。ロサンゼルスで、海水着で心地いい天気を楽しんだあと、いまはひどい寒さ、そして雪と風。明日、ニューヨークに到着する予定……わたしは列車の中でのみよく眠れる。昨夜も、そして今日も昼食の前後に眠った。

 ラヴェルは53歳の誕生日、1928年4月7日に、ニューヨークに戻った。歌手のエヴェ・ゴティエーによって、(赤い肉がたっぷり用意された)晩餐会が開かれた。その席にエヴァはジョージ・ガーシュイン(アメリカの作曲家、1898〜1937年)を招いた。ジャズを展開させたリズムと独自性あふれるアメリカの作曲家ガーシュインの才能を、ラヴェルが賞賛していることを知っていたのだ。ガーシュインは有名な『ラプソディー・イン・ブルー』やいくつもの自作曲を演奏し、その入り組んだリズムのあり様に、ラヴェルは圧倒された。ガーシュインはラヴェルの元で学びたいと思っていたが、それをラヴェルは思いとどまらせた。「きみの素晴らしい音楽性が失われてしまう、そして質の低いラヴェルを書くことになってしまう」 そうラヴェルは若いアメリカの作曲家をさとした。

ラヴェルの隣りでピアノを弾くエヴァ・ゴーティエ、右端にいるのがジョージ・ガーシュウィン

 ラヴェルはアメリカ滞在での幸せな思い出と、アメリカの友人たちの温かなもてなしをフランスに持ち帰った。4月下旬に「パリ号」でフランスに向かう前、ジャーメイン・シュミッツ夫人にさよならのメッセージを送っている。それをブルーの花々を散らした絵葉書に書いた。

雲ひとつない青空のような、この花の美しいブルーは、希望を育む愛ある優しい気持ちを表しています。
          P.P.C(pour prendre congéの略:お別れの挨拶)
                         モーリス・ラヴェル

  これが感傷とは無縁の、皮肉屋で冷たいと思われている男からの言葉だった。

1928年4月27日、ラヴェルはフランス北西部の港町ル・アーブルに到着


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