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X. スペインへのあこがれ

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著者マデリーン・ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。

・ラヴェルのスペインへの親近感
・『スペイン狂詩曲』
・父の死
・『スペインの時』
・批評家のコメント

 踊りや民謡が豊かで盛んなスペインは、モーリス・ラヴェルの心の友だった。幼い頃の思い出はバスク海岸で聞いたメロディで埋められている。またスペインのリズムは、ラヴェルのからだの一部でもある。スペインの作曲家マヌエル・デ・ファリャは、ラヴェルのことをこう評した。「スペイン人以上にスペイン人だ」と。またフランスの詩人で批評家のアンドレ・スアレスはラヴェルを「スペイン出身のギリシア人」と呼んだ。

 彼のやること、彼の存在、ラヴェルのすべてにおいて、スペインを感じる。この小さな男は古風でちょっと変わっていて、臆病で線は細いけれど、揺るぎない精神の持ち主だ。中身は厳格そのものだが、まわりは柔軟な薄い鋼でつつまれている。高々とした鼻に痩けた頬、ほっそりとスリムな体躯。その態度は少しよそよそしいものの、非常に礼儀正しい。洗練された容姿にも関わらず、ぶっきらぼうな振る舞いをする。とはいえ無作法ではない。表現は控えめ。燃え上がることを禁じる残り火の温もり。これぞスペインのコオロギである。

 スペインの音楽はいつも、フランスの作曲家たちを魅了してきた。ビゼーの『カルメン』、シャブリエの『スペイン』(この曲はラヴェルの子ども時代の憧れだった)、ドビュッシーの『イベリア』、すべての曲が、フランスとスペインの気質の近さや親和性を証明している。そしてラヴェルも、1907年にこのリストに二つの重要な作品を付け加えた。『スペイン狂詩曲』と『スペインの時』である。

 ラヴェルはスペインの民謡をもとにしたオーケストラ作品を書きたいとずっと思ってきた。初期の作品の一つであるピアノ曲『ハバネラ』は、典型的なスペイン風の曲である。この曲はずっと出版されることがなかったので、ラヴェルはオーケストラに編曲して、組曲『スペイン狂詩曲』の中に収めることにした。

 ラヴェルはこの作品を1907年の夏に書きはじめ、秋のコンサートに間に合うよう仕上げたいと思っていた。しかしここまでのラヴェルの試みの中で、最も重要であると同時に、最も難しい仕事であることがわかった。また両親や弟のエドワールと住む狭いアパートで、この作業に集中するのは難しいと気づいた。ゴデブスキー一家が自分たちのヨット「エーメ」でやったらどうだ、と提案した。それは彼らの夏の別荘「ラ・グランジェット」の近くのバルバン*の埠頭に留めてある船で、新作に取り組んでいる間、そこに住んだらいいというのだ。ゴデブスキー一家はラヴェルにこう告げた。「ここなら、いっさい邪魔をされることはないから」

*バルバン(Valvins):イル・ド・フランス(パリ近郊の地区)にあるセーヌ川河岸の街。

 ラヴェルはこの申し出を受けることにした。1907年8月、ラヴェルは「エーメ」に乗り込み『スペイン狂詩曲』に取りかかっった。孤独を分かち合うのは、船長(ときにフリカッセ料理を食べさせてくれる)だけだった。そしてこの静かな環境の恩恵を受けて、ラヴェルは集中して仕事を進めることができ、1ヶ月の間に組曲を完成させた。

 『スペイン狂詩曲』は四つの部分からなる。「夜への前奏曲」「マラゲーニャ」「ハバネラ」「祭り」。第1曲は静かな瞑想的な詩で、木管楽器を背景に、弱音の弦が歌う四つの音による主題ではじまる(下の楽譜)。

この四つの音は、何度も繰り返され、気だるい夏の夜の神秘を誘い出す。

0:00 - I. 夜への前奏曲 4:18 - II. マラゲーニャ 6:28 - III. ハバネラ 9:21 - IV. 祭り

 「マラゲーニャ」は「夜への前奏曲」の主題からゆっくりと展開していくリズミックな舞曲で、半音階のクレッシェンドによって色彩豊かな終りへと導かれる。「マラゲーニャ」は最初の発表のとき特に好評を得て、聴衆は何度もアンコールした。

 第3曲「ハバネラ」は、「均衡のとれたリズムによる傑作」と呼ばれた。その主要部分には、ラヴェルが1895年、まだ20歳のときに書いた作品が使われている。卓越したオーケストレーションが、その後のラヴェルの進化を見せている。

 「祭り」は、第1〜第3曲との鮮やかなコントラストを見せる、荒れ狂う舞曲。気だるさと激情が入り交じり、情熱的なスペイン人の生きる喜びに溢れた楽曲で、最後には狂乱のクライマックスに登りつめる。しかしながら、このクライマックスにおいても、抑制が効いている。ラヴェルはどんなときも、自制的なところを残しつつ、必要であれば、深い感情に訴えるものを引き出すことができる。

 『スペイン狂詩曲』は基本的にオーケストラ作品である。ラヴェルのオーケストレーションの色彩とパワーは、この曲で初めてまばゆいまでに発揮された。微妙にしてハッとさせられるコントラスト。息を飲む強烈なクレッシェンドと、ささやきのような微かなピアニッシモ、荒々しいダンスのリズム、そして重苦しい倦怠感が、混乱・困惑の中、入れ代わり立ち代わり現れる。音楽評論家のジャン・マーノルドはこの曲を「豊かで贅沢なものが、ほっそりした曲の様相を強調する、新奇で魅惑的な響きのおとぎの国」と呼んだ。そしてこの曲には、三つの交響曲に使うのに充分な素材が含まれていると述べた。

 『スペイン狂詩曲』は多くの人から、輪郭がはっきりしない、様式に欠けていると批評された。しかしフランスの評論家ジャック・リヴィエールは、「暖かな音響の靄」の中に、この曲独特の「麻痺の中で沸く高揚」の魅力を見つけた。

 わたしたちはこの音楽の表現上の美徳が、非常に判別しにくいところにあることを理解する必要がある。このほの暗い、浮遊するハーモニーの中に。永遠のためらいの中に。あらゆるものが蒸発する大気の中に、それは見つけられる。

 『スペイン狂詩曲』が1908年、コロンヌ管弦楽団によって演奏されたとき、アパッシュやその他のラヴェルの友人たちはみんなで、仲間の新曲を称賛しようと押しかけた。聴衆はそろって称賛し、第2曲のアンコールをした。しかし保守的な聴衆が座る最上席からは、興味を示されなかった。これを見て、フローラン・シュミット(アパッシュのメンバーで、1900年度のローマ賞受賞者であり、若手作曲家の中で最高の才能を見せていた一人)は、天井桟敷から大声で叫んだ。「またか、聞く耳をもたないやつらだな」

 他にも「理解できない」者はいた。気取っている、諦めが悪い、知ったかぶりだ、計算高いなどとと非難された。とはいえ、全体としては『スペイン狂詩曲』はこれまでの楽曲と比べれば、大きな成功を収めた。そして今日、わたしたちが「印象主義」や不協和音に慣れると、ラヴェルのこの組曲は、様式で驚かせるというより、むしろ保守的にさえ見えてくる。

 自分の大胆なハーモニーで、同時代の音楽界を驚かせることにラヴェルは喜びを感じ、自慢にさえ思った。自分がアバンギャルドの一員である(音楽的大胆さによって、自分が少し時代の先を行く)と考えられることを好んだ。第一次大戦後、フランス6人組などの若い音楽家たちが、自分を超える大胆な音楽的効果でリードするようになると、ラヴェルは自分がもう、近代の最前線にいないことに気づいて悔しく思った。

 ラヴェルの父ジョセフ・ラヴェルは、ルヴァロワ=ペレ(パリ中心部から6kmあまりのセーヌ右岸の地域)に移ってから体調を崩しはじめた。ひどい頭痛に加え、以前のような好奇心やエネルギーをなくしてしまったことに不満を言った。モーリスにとって、家族は自分の人生でなにより大切なものだったので、父親の健康状態に頭を痛めた。父を喜ばすために、そして病状から気をそらすために、オペラを作曲することにした。ジョセフ・ラヴェルは劇場を熱愛しており、息子が劇場で作品を発表すれば、大きな喜びになっただろう。ジョセフは息子の達成したものに大きな誇りをもっており、いつかオペラを書く日が来るのを待ち望んでいた。

 ラヴェルの最初のプロジェクトは、ゲアハルト・ハウプトマンの伝説ドラマ『沈んだ鐘』だった。伝説も詩もラヴェルの心を捉えたが、この話には工場(鋳物工場など)の場面が含まれていたので、さらなる魅力を感じた。フェルディナン・エロルド(ドイツ語の『Die versunkene Glocke』をフランス語に訳し、ラヴェルとともに、扱いにくいドイツ語のテキストをカットするなど、台本を単純化した人)は、次のように書いている。

 ラヴェルは、鋳物工場を職人一人が働いているような小さな作業場ではなく、20世紀初頭に見られるような、精緻に装備された大きな工場がいいと、ハンマー、チェーンソー、やすり、サイレンなどの音をたくさん音楽の中に使用した。

  ルヴァロワ=ペレがいつになく暑かったこの年の6月、ラヴェルは新たなプロジェクトに精力的に取り組んだ。

 2週間というもの、わたしは作業から離れることがなかった。こんな仕事の仕方をしたのは初めてだ。そう、コンピエーニュ(フランスのオワーズ県)でね。でもあそこはあまり楽しい場所じゃない。劇場のための作品をつくることはワクワクすることではある。なんであれそうなるという意味ではないが、まさに最高の仕事だな、、、

「友人たちによるモーリス・ラヴェル」よりモーリス・ドラージュの引用

 その8月、モーリスは父親をスイスに連れていこうと決心した。スイスの涼しい気候と、父親の子ども時代の馴染みある風景が、健康と気力を取り戻してくれるのではないかと願ったのだ。スイスから、ラヴェルは友だちのドラージュに手紙を書いている。

 1906年8月20日、エルマンスにて
 で、今わたしはスイスにいるんだ、海を懐かしむことはあまりないね、、、、ここは穏やかで、とてつもなく清澄な場所だよ。父は若さを取り戻した、もう頭痛もないと言ってるよ。
 ここの住人というのも、とても興味深い。時計製造をやっていたいとこは、今やジュネーブの劇場でバイオリンの首席になっている。
 しばし中断されたが、『沈んだ鐘』の作業をするためピアノの到着を待っている、、、考えてみてくれ、もうすでに(きみが知っている第1幕に加えて)、第2幕のおおかたはできているんだから。

 しかし『沈んだ鐘』が完成することはなかった。次の春に、ラヴェルはフランスの詩人フラン=ノアンによる、面白い1幕ものの劇を見つけたのだ。『スペインの時』の時計とオルゴールに魅了されて、やっていた作品を脇に置き、二度と手をかけることがなかった(とはいえ、いくつかの主題が後に、オペラ『子供と魔法』で使われた)。

 『スペインの時』を終えると、それをフラン=ノアンのところにもっていき、いつもしているように、スコアを演奏して著者の許可を得ようとした。歌の部分は、オペラ向きではない自分の声でハミングした。演奏をし終えると、フラン=ノアンの感想を期待して待った。ところがフラン=ノアンは音楽的な感性に恵まれていなかった。沈黙がながれた、、、するとフラン=ノアンはポケットから時計を取り出した。「56分でした」と礼儀をもって答えた。

 オペラ=コミック座の監督アルベール・カレは、ラヴェルのオペラを上演することを承諾した。しかし問題があって遅れ、『スペインの時』は4ヶ月で完成したのに、初演が行われたのは数年後の1911年だった。

 その間に、ジョセフ・ラヴェルの病状はどんどん悪くなり、1908年10月13日、ルヴァロワ=ペレで逝去した。モーリスはひどく落胆し、何ヶ月も仕事を再開できなかった。父親の死の翌年、ラヴェルが書いたのはピアノ曲『ハイドンの名によるメヌエット』のみだった。

 ラヴェルは『スペインの時』を「音楽による会話」と呼んだ。古典的なオペラの様式とは完全に違うもので、従来のアリアやコーラス、オーケストラの間奏曲はほとんどなく、イタリアのオペラ・ブッファのようで(笑劇に近く)、ときに風刺劇のようでもあった。これはミニチュアのオペラで、登場人物はあやつり人形のようで、すべてが可能なかぎり小さな空間の中に詰め込まれていた。オーケストラはオペラ全体を通じて裏方に徹し、声の部分は、歌っているというよりしゃべっているように書かれていた(話すように歌う唱法)。その結果、通常の劇より自然で、音楽を伴うことで、無理なく効果が高められ、生き生きとして色彩豊かだった。

 舞台は18世紀のスペインのトレドにある時計屋。ラヴェルは様々な時計や音の出るおもちゃの機械音を完璧に表現したので、それは人間の登場人物以上に生き生きとしているように見えた。この作品は、こういった様々な音を音楽に翻訳するいい機会になったに違いない。フラン=ノアンの喜劇が、ラヴェルの通常の端正な持ち味からかけ離れていたことが、台本として選ばれた理由のようだった。皮肉っぽさに傾きがちではあるが、ラヴェルはいつも倫理的にも個性においても正しい選択をする。『スペインの時』の微かな風刺は、ラヴェルにとって、この劇のあからさまに品のない内容以上に、訴えるものがあったのだろう。

 序曲、あるいは冒頭の前奏曲は、うっとりさせる情景描写ではじまる。フランスの批評家、エミール・ヴュイエルモーズ はこれを「時計たちの小さな声によるコーラス」「味わい深い前奏曲で、そこから馴染み深い歌心が心地よく発散され、、、そこには詩と、時を刻む装置がかもす神秘がみえる」と表現した。

 目の前に舞台装置がなくとも、わたしたちはこの前奏曲を聞けば、トルケマダの時計屋の店内を感じ、目にすることができる。ゆっくり優しい音で、小さな店内の時計の音が鳴りはじめる。(静かに息をするように)時計のチックタック、振り子の揺れる音、鐘のひびき、オルゴール、そして最後にトルケマダとラミーロ(時計を直してもらおうとやって来たラバ曳き)の声。「これはわが家の家宝、わたしの叔父は闘牛士で、これで牛の危険な角から身を守った」。

 時計屋の妻、コンセプシオンが上機嫌で入ってくる。その日は夫が、役所の時計を調整するために出かける日で、自分の好きなことができるからだった。しかしラミーロはどうする? 急いで出かけようとするトルケマダは、戻ってくるまで待っていてくれとラミーロに頼む。「ラッキー!」とコンセプシオン。「夫が出かけていく週のこの日は、わたしが自由になって、そしてイカレタ男に堕落させられる日」(妻は詩人の愛人ゴンサルヴェが訪れるのを待っている)。さて妻はどうするだろう。おそらくラミーロが利用されるはず、、、

 「この時計なんだけど、ムッシュー」と妻はラミーロに言う。「これを運ぶのは難しいかしら? 二人か三人必要かしら?」

 頭脳より腕力に自信のあるラミーロは、自分の力を証明するのを喜ぶ。「あの時計でしょうか、マダム? ワラみたいなものです、クルミの殻ほども重くない。一本の指で持ち上げられますよ」 ラミーロが時計をコンセプシオンの部屋に置くため2階へと消えると、ゴンサルヴェが現れる。

 カタロニアとノルマンディの大きな時計が、上げ下げされる愉快な場面が展開される。コンセプシオンは心変わりして、別の時計を部屋に運んでほしいとラミーロに告げる。彼女はゴンサルヴェをその時計の中に隠していた。腕力自慢のラバ曳きは、なんでこの時計はこんなに重いんだ、と不思議に思いながら、2階に運ぶ。

 ゴンサルヴェがいなくなると、もう一人の愛人が現れる。うぬぼれ屋で有力者のドン・イニーゴ・ゴメスだ。「わたしには地位も影響力もあるから、役所の時計の世話をおまえのオメデタイ夫に指名した。夫が定期的に業務を果たすのはいいことで、家から連れ出すことになるからな」

 家に二人の愛人を迎えて、コンセプシオンは途方にくれる。時計の中にいるゴンサルヴェをなだめるために2階に行くと、イニーゴは彼女をからかおうと、別の時計の中に隠れ、機械っぽいつくり声で振り子の音とカッコウの声をまねる。

 当惑したコンセプシオンは、ゴンサルヴェが詩を吟ずることに興味をもっていることに気づく。「ムッシュー、あー、ムッシュー!」 彼女はラミーロのところに走っていて叫ぶ。「正しい時間を刻まない時計をわたしが部屋に置くと思う? 神経がピリピリするわ」

 ラミーロの方はひるむことなく、ゴンサルヴェが中に入った時計を下におろすために2階に上がっていく。イニーゴの方はコンセプシオンに訴える。「あなたはわたしに若さやロマンスがないのに不満かな? でも若ければ若かったで欠点はあるし、若者というのは経験がない」

 これに対してコンセプシオンはこう答える。「そりゃそうね、そりゃそうだわね!」

  最初の時計とともに降りてきたラミーロは、コンセプシオンが別の時計を上に運ぶことを当然のように受け取っている。「いかがしましょう。あなたが部屋に運んでほしいのはこの時計でしょうか?」 コンセプシオンはすぐさま心を決める。「運んでちょうだい、でも重くないかしら?」

 ラミーロは時計を肩にかついで「水一滴、砂粒ひとつですよ」と答える。

 コンセプシオンは、時計を(そしてでっぷりとしたイニーゴも一緒に)2階に運ぶのを見て、感嘆する。

 時計の中にひとり残されたゴンサルヴェは、身を隠すハマドリュアデス(木の精)にソネットを吟ずる。しかしラミーロが戻ってきて、そのすぐ後にはコンセプシオンによって邪魔される。コンセプシオンは怒り狂う。「あー、なんと醜い火遊び! 愛人二人のうち、一人はぼんやり、もう一人はアホなやつ」

 「時計がなにかご迷惑を?」 ラバ曳きが聞く。「はいはい、わかりました、落ち着いて。また持って降りますよ」

 落ち込むコンセプシオンは突然、ラミーロの魅力に気づく。「なんという落ち着きと冷静さ、、、こんな力持ち、これまでに見たことがないわ」 そして甘い声でこう尋ねる。「もう一度、2階にいらっしゃる?」

 「ええ」とラミーロ。「でもどっちの時計を持っていけばいいでしょうか?」

 「どっちでもない」 コンセプシオンはそう言うと、ラバ曳きと連れ立って出ていく。

 さて二人の捨て置かれた愛人、ゴンサルヴェとイニーゴは、それぞれ時計の中に残される。そこにトルケマダが帰ってきて、二人を見つける。「時計屋にとって、店にもどって客がたくさん待っていることほど嬉しいことはない!」 トルケマダは嬉しそうに言い放ち、この変な状況を理解しない。イニーゴとゴンサルヴェは自分たちの困惑を隠し、それぞれの時計にさも関心があるかのように振る舞う。すると敏腕トルケマダは、この時計を彼らに法外な値段で売ってやろうと、男たちのヘマを利用する。

 しかし太ったイニーゴは時計の中にしっかりと収まっていて、トルケマダとゴンサルヴェの二人がかりでも引っ張り出すことができない。ラミーロと戻ってきたコンセプシオンは、二人の男を鎖につなぐが、それでもイニーゴはしっかりと時計の中に収まっている。ところがラバ曳きがその胴まわりをつかむと、いとも簡単にイニーゴを引っ張り出した。

 オペラは登場人物全員が声を揃える、見事な五重唱で終わる(ボーカルバランスの名手ラヴェルの実例)。ボッカチオの金言から:

愛人たちの中の、能力あるものが成功する。愛を求める男たち、そしてラバ曳きの番がやってきた。

下の動画はマゼール指揮フランス国立放送管による日本語対訳付き『スペインの時』(45:59)

 1911年5月19日、『スペインの時』はオペラ=コミック座で、マスネのあまり知られていないオペラ『テレーズ』とともに上演された。ここでも批評家たちの意見は分かれた。ある者はこの作品を際どいジョークと見た。「ポルノ的な軽喜劇のミニチュア化」と呼び、ラヴェルは価値のないテーマに才能を消費したと残念がった。批評家たちは、ラヴェルは登場人物の感情を表すよりも、時計がどのように動くかの模倣に興味を抱いていると言った。劇に出てくる人間は音楽時計の中の自動人形のようで、魂も生きた感じもない。音楽は「ドビュッシーのペレアスを思わせるが、超スローな回転の蓄音機で聞くペレアスである」などなど。

 しかしながら、どの批評家もオーケストレーションの素晴らしさには同意し、同時代の音楽に並ぶものはないと言った。フランスの作曲家、エドゥアール・ラロはこの曲をシュトラウスと比較し、「リヒャルト・シュトラウスのオーケストラ的なイマジネーションだが、ミニチュアのシュトラウスである。極小の中で仕事をするシュトラウス、、、オーケストレーションは魅力的で輝かしく、ユニーク、多様性があり、微妙で変わった響きにあふれている」と述べた。前述の批評家、ヴュイエルモーズ は「ラヴェルは色彩の創造者。彼は画家であり、金細工人であり、宝石職人である」と書いた。

 オペラ=コミック座での『スペインの時』の初演のあとで、ラヴェルの友人たちは、上演に対して彼がどのような反応を見せるか、心配しながら見守った。ところが(ご存知のように服装にうるさいラヴェルは)感想は述べたものの、気にしていたのは別のことだった。

 「上流社会の人たちはみんな濃紺のイブニングを着ているのに気づいたかな?」とのたまった。「そのことを考えて、今晩のために、新しいブルーのスーツを特別にあつらえたんだ。なのに、わたしのところのアホな仕立て屋は、届け忘れたんだよ!」

*父親のジョセフ・ラヴェルも、息子のモーリスの死の原因となる同じ脳の病気を患っていたと考える人がいる。


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