見出し画像

VII. アパッシュ

もくじへ
著者マデリーン·ゴス(1892 - 1960)はラヴェルの死後まもなく、英語による最初の評伝を書いたアメリカの作家です。ゴスは当時パリに滞在しており、ラヴェルの弟エドゥアールやリカルド・ビニェスなど子ども時代からの友人や身近な人々に直接会って話を聞いています。『モーリス・ラヴェルの生涯』は"Bolero: The Life of Maurice Ravel"(1940年出版)の日本語訳です。Japanese translation © Kazue Daikoku

・20世紀を迎えたパリ
・グループ「アパッシュ」
・ラヴェルの友人、仲間たち
・ロシア人作曲家の影響
・『鏡』
・『おもちゃのクリスマス』
・『ソナチネ』

 19世紀の終わりから20世紀初めにかけてのパリは、今日(訳注:この文章が書かれた1940年頃)とはかけ離れたテンポで物事が動いていた。交通機関の違い(スピーディーなタクシーではなく、のんびりした四輪馬車といった)だけでなく、気質や興味のあり方において大きな差があった。その時代の若者たちは、スポーツやカーレース、カクテルパーティではなく、芸術や政治、知的な議論の方をより好んでいた。中でも芸術(信仰のようなものだったかもしれない)は、若者たちの情熱の表れだった。それが絵画であれ、彫刻であれ、文学、音楽、と分野は違っても同様だった。そして彼らは揃って、新たな様式を探しており、過去の思想や伝統を(ときに情け容赦なく)切り捨てた。

 この時代、フランスでは芸術が大きく花開き、あらゆる分野で新しい進展が見られた。セザンヌ、モネ、ゴーギャン、ファン・ゴッホは、絵画の型通りの様式と訣別していた。ロダンの強烈な「神託」が、彫刻において新たな時代を切りひらいた。ヴェルレーヌとマラルメは詩における新しい言葉を、サティとドビュッシーは音楽に新たな言語を発見した。

 革新は時代の叫び、独創性が大事だった。「古い様式にはあきた」 そう若い芸術家たちは主張した。「今までとは違うことをしよう。犠牲は問わない」 昔ながらの伝統にしがみつく者たちは、社会的地位によってではなく芸術への嗜好で、ブルジョア(中産階級)として蔑まれ、追放された。若い知識人たちは、こういった保守派の人々をギョッとさせる(ブルジョア連中に強烈な印象を刻印する)という意地の悪い楽しみを得ていた。それは表面的なことに過ぎないと言うこともできたが、背後には古びた伝統の殻を打ち破り、新たな発展をしたいという抑えきれないエネルギーがあった。

 モンマルトルとカルチェ・ラタンは、こうした熱狂的な若い導師たちの「新宗派」にとっての中心地だった。彼らはみな貧乏で、金持ちは、芸術的感覚をダメにすると感じていた。そして世俗的な賞賛を無視し、創造的な作品を信条とした。若手の作家、画家、音楽家たちはポール・ソルドというモンマルトルの丘の上、デュロン通りに住む画家のアパートでしばしば会った。ラヴェルは20世紀初めにソルドと知り合いになり、彼の仲間のアーティストたちとも懇意になった。
 ラヴェルはソルドのつくる雰囲気が、自分の趣味に完璧に合っていると気づいた。友だち関係において、どこか打ち解けないところのあるラヴェルだったが、ここの若い知識人たちの鑑賞眼や理解力が、ラヴェルの控えめな態度を打ちこわし、刺激を与えることになった。それによりこの時期は、キャリアの中で楽曲作りの最も活発な時代となった。

 最終的に彼らは一つの集団となり、その名前はちょっとした出来事によって生まれた。
 夜も深いある晩のこと、ラヴェルとビニェスがソルドのスタジオに向かって、モンマルトルの路地を歩いているとき、粗野な男が二人にぶつかってきた。「気をつけろ、このアパッシュ(ゴロツキ)が!」 その男が二人を脇に押しのけて叫んだ。

 「アパッシュ」とは当時のパリで人を侮辱する言葉としてよく使われていた。その呼び名を、規範や秩序を逸脱し、社会的な追放者として行動する「地下グループ」である自分たちの集団にあてはめた。乱暴者との出来事に憤慨する代わりに、ラヴェルとビニェスはこれを楽しんだ。「きみにはぴったりな呼び名だな、モーリス」 ビニェスが歩きながらそう言った。「批評家たちは、そう呼ぶんじゃないか」 自分の友だちがすでに「音楽の無法者」として知られていることから、そう言った。
 「わたしが無法者なら、きみも同類だ」とラヴェルは言い返し、「これについては我々全員がそうかもしれない」
 二人がこの事件を話すと、みんなは「アパッシュ」の名に飛びついた。「アパッシュの集団!」 そうみんなで声をあげた。「我々をそう呼ぶことにしよう」 実際のところ、ここに集まる者たち、ポール・ソルドのスタジオに集まる若者たちは、多かれ少なかれ無法者で、少なくとも芸術における考え方や感覚においては、昔ながらの社会からは受け入れられていなかった。「アパッシュ」の名は、彼らにとって解放のシンボルとして強く訴えるものがあった。

 ポール・ソルドは気のいい、金髪頭の若い男で、絵画の才能に加えて、ちょっとした能力を見せる音楽家でもあった。ラヴェルの音楽に熱狂的で、自分の絵画作品の色合いに、その音楽的効果を取り入れようとしていた。アパッシュのメンバーはソルドを「パレットのラヴェル」と呼んだが、その怠惰な性格から、ソルドは絵でも音楽でも名を成すことはなかった。

 リカルド・ビニェス(憂い顔にカイゼル髭、いつもピアノを弾きたくて指をうずうずさせている)は、このグループの人気者だった。ピアノを弾いたり、スペイン語なまりのフランス語でいつ果てるともないおしゃべりをして、気の置けなさ、熱意を披露し、そこにいる者を魅了していた。
 作家で批評家のレオン=ポール・ファルグは、アパッシュ創立当時からのメンバーだった。ファルグの遅刻癖は有名だった。いつも夜遅い時間に現れた。晩餐に呼ばれれば、デザートの時間に間に合う頃にやって来て、もう夕飯は食べたと言いつつ、デザートから逆順にすべてのコースを満喫した。「もう10時だって? ちょっと遅れただけだ……」

 モーリス・ドラージュ(音楽愛好者で、のちにラヴェルの生徒になり、また最も近しい友人となった)は、1903年にアパッシュの一員になった。画家で詩人のトリスタン・クリングソルも、熱心なメンバーの一人だった。ギリシア系フランス人のカルボコレッシはエネルギー溢れる音楽評論家だった。カルボコレッシは複数の言語に通じており、オペラのフランス語への翻訳で知られていた。オペラ『ボリス・ゴドゥノフ』もそのうちの一つで、のちにラヴェルは、カルボコレッシがギリシア語から訳した五つの民謡に曲をつけている。白髪のシャルル・ソルドはポール・ソルドの兄。詩人のピエール・アウー、オペラの合唱監督シャデーニュ、画家のエドワール・ベネティクトス、さらにアンゲルブレシュト、セギーなどたくさんのアーティストがアパッシュのメンバーとなり、若い世代を批判するだけの「保守派」に対して、結束して抵抗した。そのほかのメンバーとして、フローラン・シュミット、ジャン・ジュール・ロジェ=デュカス、アンドレ・カプレ、マニュエル・デ・ファリャ、プティ神父(画家)、イゴール・ストラビンスキーなどがいた。そして1911年には、ラヴェルの生徒であり、のちに重要なラヴェル評伝作家となるロラン=マニュエルが参加した。

 活力あふれる多くのアパッシュのメンバーの中で、ラヴェルのもの静かで抑制的な姿は目立っていた。ラヴェルはメンバーの議論にめったに参加することはなく、耳を傾け、自分の中で思考することを好んだ。この時期、ラヴェルは25歳から30歳で、背が低く、ほっそりとしていて、何よりも自分の容姿に関心があるように見えた。着ているシャツはメンバーたちの賞賛の的で、上品な髭が装いを完璧なものにしていた。のちにラヴェルを知った者たちは、ポール・ソルドのアパートをしばしば訪れていた髭を生やした若者が、『ボレロ』で知られるラヴェルとは思わなかった。ラヴェルの髭は、パリ音楽院での受けもよかったので、そのときどきの気まぐれによって丁寧にカットされ、立派なあご髭スタイルはしばらく続いた。ロラン=マニュエルによると、ラヴェルは、

ダンディなボードレール愛好家の典型で、優美にして冷淡、ささいなことへの畏れをもち、感情のほとばしりが…… 隠されたメッセージを内に秘め、誇り高き抑制を見せる人物だった。

Roland-Manuel, A la gloire de Ravel
リカルド・ビニェス(左)とモーリス・ラヴェル

 ラヴェルはもともと内気な性格だったが、それが笑いやおふざけとなって表れる面があり、仲間を驚かせて面白がることを何よりも好んでいた。ラヴェルの黒いあご髭は、変装でひと目をあざむく方法だった。あるときは、先を尖らせたファン・ダイク髭に整えた。またあるときは、フランツ・ヨーゼフ1世のように、真ん中を切り離して両髭を四角く整えた。この変わった髭の扮装は果てしなく続けられた。
 アパッシュの画家たちの中でもっとも人気があったのはドガで、バレエの踊り子たちの肖像(当時のスラングで「チュチュ」と呼ばれていた)で賞賛されていた。ラヴェルは胸を膨らませたバレエのチュチュを身につけて、友人たちを笑い転げさせた。その格好に立派な髭が、奇妙な味つけとして効果を発揮した。おどけてピルエットで回ったが、ダンサーとしては体が固く、自意識過剰だった。他人が踊るところ(バレエの舞台であれ、ジャズバンドが演奏するナイトクラブであれ)を見ることは、ラヴェルにとってこの上なく楽しいことだった。音楽における、あるいはダンスにおけるリズムは、モーリス・ラヴェルにとって永遠の魅力だったのだ。

 当時、パリではロシア音楽はあまり知られていなかった。「保守派」の人々は、それを野蛮な音楽と見て、価値を認めず、関心も払わなかった。しかしアパッシュのメンバーは、いつも独創性や新しい表現を探していたので、ロシア音楽のもつ東洋的な味わいに惹かれ、手に入るスコアがあれば、何であれ演奏してみた。リムスキー=コルサコフ、ツェーザリ・キュイ、ミリイ・バラキレフ、ムソルグスキー、ボロディンの「ロシア5人組」は誰よりもアパッシュの興味を引いた。

 夜も遅いある晩のこと、ソルドがボロディンの第2交響曲を連弾用に編曲した楽譜を持ち込み、ドラージュとともにもの凄い勢いで弾き出した。それは屋根を打ち砕き、落下させるほどの音響だった(隣り近所の驚きが想像できる)。クリングソルいわく、「壮大な騒音……」であると。パワフルな冒頭の一節は大きなインパクトをメンバーに与え、これをアパッシュのテーマ曲にすることにした。
 アパッシュは(本当の意味での)秘密組織ではなかったものの、仲間うちの合図とパスワードをもっていた(たとえば「せむしのゴメス」は空想の人物に与えられたふざけた名前)。ボロディンの第2交響曲の最初の8つの音は、アパッシュの秘密の認証メロディとなった。アパッシュのメンバーが、誰か仲間の注意を引きたいとき、このテーマ曲を口笛で吹いた。

ボロディン『第2交響曲』の冒頭

 混雑する街中で、劇場で、あるいはコンサートが終わったのち、熱狂的な人々がロビーにいつまでも残っていて、守衛がライトを消してしまったときなど、このテーマ曲はアパッシュの集合の合図となった。「ボロディンの交響曲がライトの代わり」とカルボコレッシ。

 1904年、グループ「アパッシュ」は、オートゥイユに場所を移した。そこはモーリス・ドラージュが借りていたスタジオで、シブリー通りにある静かな庭園の奥にあり、サンチュールの鉄道駅からもそう遠くなかった。この建物は1900年のパリ万博のために建てられた小さなパビリオンで、のちにオートゥイユに移された。大きな部屋が一つあり、そこにはピアノ1台と椅子がいくつかあるだけだった。ドラージュのベッドはクローゼットの内側に取り付けられ、アパッシュの集会が終わると(午前2時とか、もっと遅く)、それを引き倒してそこで寝るのだった。小さな「サンショウウオ」が唯一の暖房だった。(詩人のレオン=ポール・ファルグは、いつも寒がっていて、キャンドルを焚けとドラージュに言っていた)

 少しして、もう1台、ピアノが追加された。アパッシュにとって、暖房や部屋の調度より大切なものだった。ここでは、隣り近所を気にせずに、音楽を満足いくまで楽しむことができた。一晩中のセッションがよく行なわれ、そのためラヴェルや仲間たちは、パリまでの終電を逃すことになった。彼らにとって部屋の床に寝るよりも、ピアノを弾いて一晩過ごす方がより楽しいことだった。

 ドラージュのパビリオンは、当時の若手知識人たちにとっての本部となった。ここにメンバーは集まり、( 女たちに邪魔されることなく* )音楽をつくり、芸術や政治についての議論を活発に交わし、最も重要なこととして書いてきた作品を読んだり、新作を演奏したりした。彼らは熱狂的で、明朗な精神をもち、生きる楽しみを分かち合った。「われわれは幸せいっぱいで、教養もあり、生意気だった」、そう批評家のファルグは言う。
*訳注:この時代、女性作家や作曲家はまだ少なかったと思われ、アパッシュには女性メンバーはいなかった。少しのちに「フランス6人組」と呼ばれる作曲家集団の中に、ジェルメーヌ・タイユフェール(1892〜1983年)が含まれはしたが。

 ある晩、ラヴェルは薄いしわしわの紙を巻いたものを持って、スタジオに現れた。とても大切なものであるかのように、それを注意深く広げて伸ばし、出来立ての新曲をみんなのためにピアノで弾いてみせた。「悲しい鳥たち」、それは素晴らしい組曲『鏡』の第1番に置かれた曲だったが、出版されたときには第2番目に入った。組曲のひとつひとつは、アパッシュのメンバーひとりひとりに捧げられた。「蛾」はレオン=ポール・ファルグに、「悲しい鳥たち」はビニェスに、「海原の小舟」はポール・ソルドに、「道化師の朝の歌」はカルボコレッシに、「鐘の谷」はモーリス・ドラージュに。

 『鏡』はラヴェルの新しい刺激的な環境の結果として生まれた作品と言える。豊かなハーモニーに加え、初期の作品より大きな展開をもっていた。タイトルの『鏡』には、ラヴェルの基本理念がよく現れている。ラヴェルにとって、偉大な芸術は「現物の正確な複写」であるよりも、「現実の反射」だった。人間による「実物」の解釈は、実物そのものより価値が高いと思っていた。このような考えから、「artificial(人工の、人造の)」と呼んでいるものに、明白な誇りをもっていた。この「artificial」は、自分のかける労力によって、ある素材をより高いレベルのものに変換することを意味していた。ラヴェルは自分の感情を引き起こす状況そのものより、音楽を通して表現された自分の感情により大きな興味をもっていた。『鏡』は、鏡の中にある現実であり、その鏡とはこの音楽家の魂だった。
 「悲しい鳥たち」は、この組曲の中で最もそのことが現れている曲だと、ラヴェルは考えていた。この曲で、鳥たちは、夏の真っ盛りの耐えられない暑さの中、暗い森で正気を失う、そうラヴェルは言う。音楽学者のレオン・ヴァラスは「蛾」について、「羽ばたきを表す音の洪水の中に溺れる、夜の蝶の絡まり合う飛翔曲線」と描写する。「道化師の朝の歌」は最もよく知られた曲。きらめき溢れる技巧が、ピアニストには魅力となる。またラヴェル編曲によるオーケストラ版は、コンサートで聴衆に人気があった。批評家たちは「海原の小舟」を、何も描かれていない下絵に色をつけさせられるように、「当惑させられる曲」と呼ぶ。しかしながら色は非常に豊かで、生気があり明快…… が、その壮観さは瞬間ごとに変化する。それは万華鏡のような変化。この海原がどのような天候か、知る由もない、と。

↓ 『鏡』より「悲しい鳥たち」(ピアノロールによるラヴェル自身の演奏)
 この動画の中に、ラヴェルが話している短いフィルムが挿入されている。

↓ 『鏡』より「道化師の朝の歌」(演奏:ブルース・リウ)

 音楽評論家のピエール・ラロは、初期の批評では、ラヴェルに対して非常に厳しい論調だったが、『鏡』に対しては功績を認めていた。「海原の小舟」と「鐘の谷」について、「音楽的な楽しみの素晴らしさ以上のものがある……自らを明らかにする感傷や感情を含む」と述べた。多くの批評家が、ラヴェルの新しい組曲の独創性について話し、『鏡』はピアノ音楽の新たな傾向の始まりであると記した。

 詩の美しさに非常に敏感になっていたラヴェルが、アパッシュの知的な雰囲気に刺激を受け、文学に自ら手をかけたとしても不思議はない。1905年、ラヴェルは『おもちゃのクリスマス』と題した素晴らしい詩を書いている。そして詩に曲をつけ、クルッピ夫人にこの歌を献呈している。

ニス塗りのおもちゃの羊たち 
そろって飼い葉桶に雪崩れこむ
ウサギたち 太鼓をタンタントンスカトン
ミリトン笛をかき消して
(詩の第1節、フランス語からの試訳)

モーリス・ラヴェル『おもちゃのクリスマス』の詩の第1節

音楽は詩の夢想的なところを、魅力的に表現し、「ベルゼブブ、邪悪な犬」を表す深い響きは、のちの『マ・メール・ロワ』を思い起こさせる。他の作品ほど知られていないとは言え、ラヴェルの子どもっぽい性質の現れという点で興味深く、また曲作りにおいても、この作曲家の才能がいかんなく発揮され、魅力的である。
 
 この時期にラヴェルの最も繊細な楽曲の一つ、ピアノのための『ソナチネ』が発表され、パリの音楽雑誌がスポンサーのコンテストに出品された。クラシック音楽のソナタ形式で、第1楽章はゆっくりと物悲しい雰囲気で、第2楽章は非常に優しさのあるメヌエット、そして第3楽章は輝かしい終曲となっている。ロラン=マニュエルは「若さと円熟の二重紋章が押されている」と語る。

アパッシュという非常に知的な若手アーティストと過ごした数年間が、ラヴェルの音楽の発展において、また鋭敏で皮肉っぽい芸術性においても、大きな役割を果たしたことは間違いない。アパッシュでの友人関係や彼らから受けた評価は、ラヴェルの創造性を最大限に発揮させ、のちの時代に比べるもののない刺激となった。

トリスタン・クリングソルは、詩集『ユーモラス』の中で、アパッシュで過ごした日々の、仲間たちへの愛を次のように表している。

水遊び

空き地で 水遊び
それは狂人たちの集まり
美しさに乱れ散る心
モーリス・ラヴェルのベルベットのチョッキの下では
皮肉で優しい心が 脈打っている
(フランス語からの試訳)
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?