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未来形がない日本語、そして英語について

英語の文法で仮定法における時制の勉強をしていて(*註)、ふと、日本語には未来形がないのでは?と気づきました。未来形、あるいは未来時制がない。文法を調べてみると、やはり日本語には未来形がないようでした。また英語のように動詞変化による未来形はなくても、助動詞のwillとかbe going toをつかって未来について表す、という方法があるわけでもありません。

展覧会に行きます。
来月、展覧会に行きます。

現在形、未来形が同形です。過去に起きたことなら「展覧会に行った」という風に言えます。でも未来については特別な言い方がない。なぜなのか。

英語との比較でいうと、日本語の時制はシンプルに見えます。外国人が日本語を学ぶのは難しい、というのを聞いたことがありますが、実際はそうでもないのかもしれません。ドイツ語やスペイン語の方が文法が難しく、英語は比較的簡単だと聞いたこともあります。

ただ簡単と言われる英語の場合も、時制の感覚がない(過去とそれ以外しかない)日本語話者にとっては、なんか理解しにくい、スッと腑に落ちないという実感があります。
時制 ーーー 時間の区切りの感覚とは何なんでしょうか。

複数の節がある文章、主節と従属節で成り立っている英語の文章( ifとかwhenとかthatとかで繋がっている文)は、時制をどう選択するか、どう合わせるかパッと出てこないことがあります。出てきてもそれが合っているのか不安になるといった。

コーヒーを飲まないと、イラつく。
If I haven't had my coffee, I'm grumpy.

コーヒーを飲まないと、なんで頭がいたくなるの?
Why do I get a headache when I haven't had my coffee?

これは習慣を表すとき、よく使う表現のようですが、でもなぜ if 節や when 節が現在完了形になっているのでしょう。日本語的感覚で言うなら、
If I don't have my coffee, I'm grumpy. 
でしょうけど、これを試しにGoogle翻訳にかけてみると、「私がコーヒーを持っていないなら、私は不機嫌です」となります。現在完了形を使えばちゃんと訳します。ただ、Gmailにこのテキストを入れても、特に直されることはないです。文法的な間違いとは言えないのかもしれません。(文法的に間違ったり、時制に整合性がないとGmailでは赤線が入ることが多い)

完了形というのはものごとを正確に表すのに便利な用法なのかもしれませんが、日本語話者にとってはやっかいでわかりにくいものです。現在完了形、過去完了形、そして未来完了形というのまであります。未来完了? なにソレって感じです。単純な現在形、過去形、未来形はいいとして、完了形となるとその概念みたいなものがとても理解しにくい。

時間の区切り方というか、時間軸の設定がわからないと、なんでこんなに細かく分けなくちゃいけないのか、、、という風になります。

現在完了形というのは、現在から見た過去のある時点(第2地点)が現在につづいているとき、過去完了形は過去のある時点とそこから見たさらなる過去のある時点(第2地点)が(過去のある時点に)つづいているとき、未来完了形は未来のある時点をそれ以前のどこかの時点から見て予測するときの用法。う〜ん、なんじゃこれは。となります。

Next week, I’ll have worked here for 15 years.
ここで働きはじめて、来週で15年です。(15年になります)

やっぱり日本語の方が簡単じゃないでしょうか。

日本語は敬語が微妙で、外国人にとって難しいと言われることがあります。が、英語の敬語的な表現というのも、知らないと案外使えないものです。わたしが知らなかったことで最近知ったのは、関係が遠い人に何か訊くとき、どう言ったら婉曲な表現になるかという場合、進行形をつかうという方法。

1. When will you leave here? と、妹なら率直に訊くところを
2. When will you be leaving here? と、友だちの両親には言う、といった。

1の場合、単純に訊いているだけなのか、あるいは帰ることをちょっと相手に促しているのか、それは状況によるかもしれませんが。日本語でも「いつ帰るの?」と訊いた場合、両方ありそうです。でも関係の遠い人、遠慮のある人、初めて会った人などに1で訊いたらどうなのか。

あるいは、仮定法で if を落として主語述語を倒置させると、とてもフォーマルな言い方になるとか。(使ったことない)

Were we meeting later, she’d try hard to be there.
あとでお会いできるのであれば、彼女はなんとかして来ようとするでしょう。

どんな言語でも、婉曲な言い方やていねいな表現、フォーマルなもの言いがあるのは当然かもしれないですね。日本語だけに敬語的表現があるわけではないということ。

完了形の話にもどると、時間の捉え方がわかりにくいというのに加えて、単純な完了形(perfect simple)か、進行形の入る完了形(perfect contiuous)かの使い分けも、日本人の感覚からするとわかりにくいものです。

She has been writing a book for a month.
1ヶ月間、彼女は本を書いてきた。
とは言えるけれど、
She has written a book for a month.
とは言えないとか。

あることをやった期間が一時的または短い場合、進行形の入る完了形を使うそうです。単純な完了形を使うなら、
She has written three books in her life.
というような場合でしょうか。これをもし過去形で言ったらどうでしょう。
She wrote three books in her life.
彼女は人生で3冊の本を書きました。その人はもう死んでいて、生きている間に3冊の本を書いた、そういうニュアンスになるのか。
Google翻訳にかけると、現在完了形の場合、日本語訳は「人生で3冊の本を書いています」になります。ここまでに、という感じです。

過去完了形についても同様で、
She had been writing for three months when she decided to hire someone to help her.
彼女は、誰か手伝ってくれる人を雇おうと思うまでの3ヶ月間、(頼る人なしに)本を書いていた。
これをShe had written for three months...とは言えないようです。had writtenだとそこでアクションが終了するので、3ヶ月という短い期間を入れるのはおかしいし、この状況下ではまだ書いている最中だから、ということでしょうか。本を書くという作業には必ず終わりがありますが、それがまだ継続中の状態、本を書いている状態、だから進行形を用いるということのようです。

ただしこれが否定形になると、完了進行形は使えないそうです。
○She hadn't written for three months. となり
☓ She hadn't been writing for three months. とは言えない。
意味的に言うと、わかる気もしますが。「彼女は3ヶ月間、書いていなかった」とは言えても、「彼女は3ヶ月間、書き続けていなかった」はないという。

完了進行形で否定文が使えるケースとして、誰かが言ったことを正す場合には次のように言えるそうです。たとえば自分の両親が何日、自分の家に滞在したかについて、実際は2日間だったのに、出張中の夫が1週間だと勘違いしていたとき。(現在完了進行形の否定文)
My parents haven't been staying with me for a week.
父と母は1週間、うちにいたわけじゃないよ。

まあ、これ以外にも不自然ではない、完了進行形の否定文で使えるケースがあるかもしれませんが。

完了形の肯定文に戻ると、上で書いたことに当てはまらないケースもあるようです。1冊の本を書くという行為はいつか終わる一つのアクションですが、たとえば「眠る」という場合は、以下のどちらでも意味は同じなのだそうです。
I had been sleeping for three hours when July arrived.
I had slept for three hours when July arrived.
ジュリーが来たとき、わたしはそれまでに3時間眠っていた。

文法は機械的に決まっているのではなくて、動詞の行為としての意味や、文全体が含む意味によっても変わるということでしょうか。

もう一つ面白いと思ったのは、完了進行形と普通の進行形の違い。
1. I had been working but Lucy called me.
2. I was working when Lucy called me.
1の完了進行形の場合は、「仕事をしていたけれど、ルーシーの電話でそれを止めた」の意味となり、2の単純な進行形では「仕事をしていたらルーシーから電話があったけれど、仕事はその後も続けた(電話に出たあとも、あるいは電話を無視して)」というニュアンスになるようです。

ここまでで頭が少し変になりませんか? 説明としては理解できても、こんな使い分けができるものなのか。

完了形と完了進行形の違いを整理すると:
進行形の入らない単純な完了形は、第2の時点の前に、アクションがすでに終わったことを示す言い方。第2の時点の前に、(いずれ終わる)アクションがまだ終わっていないことを示すために使うのは、進行形の入る完了形。第2の時点というのは、アクションが終わった時点とは違う、別の設定上の時点だと思います。(現在完了進行形、過去完了進行形、未来完了進行形それぞれにおいて)

ここまでの説明がわかりにくかったらごめんなさい。わたし自身、この記事を書きながら頭を整理しているような状態なので。英語における時間軸の捉え方をああかこうか、と身に引き寄せようとしている感じです。

この記事の冒頭で、仮定法における時制について学んでいると書きましたが、すごくわかりにくいと感じたことに次のようなことがあります。(仮定法の基本がわかってない、あるいは単に頭が悪いだけか)

1. if 節が現在のことで、それに続く主節が過去の結果を示す場合。
If she wasn't French, she wouldn't have moved to Paris.
彼女がフランス人でないなら、パリには行かなかった。(でもフランス人なので、実際にはパリに行った)

If I was rich, I would have been able to buy a new car.
もし金持ちだったら、新しい車が買えただろう。(金持ちじゃないから、買えなかった)
*現在のことを表すというけれど、 if 節の文章自体は過去形じゃん!

2. if 節が過去で、それに続く主節が現在の結果を示す場合。
If I had gone to bed earlier last night, I wouldn't be so tired now.
昨夜もっと早く寝ていたら、今こんなに疲れてはいないだろう。
*if 節にくるのは過去完了、if I went to bed...ではなくて。

日本語であれば、「わたしが金持ちなら、新しい車を買っていたね」「金持ちだったら、新しい車を買っていたね」 どちらでも言えます。意味は変わりません。総じて日本語には、時間の感覚、あるいは時間軸というものがないのでしょうか。

過去=いま現在から前に存在するすべての時間。茫洋とした時のかたまり。すでに起きたこと。すでに起きたことで周知のこと。
過去以外=それ以外の時間。現在を起点にその先に広がる未来の総和。

こういう時間軸の中で日本語と日本人は生きているのでしょうか。過去という時制はあるので、過去について日本語で語ることは可能です。が、それは現在を起点にそれ以前に広がるひとかたまりの、区切りのない過去の総和とも言えます。その意味で、未来と同じように茫洋としたものに見えます。

日本語にも「歴史」という概念はありますが、それは英語のhistoryと同じものなのか。historyという言葉は、たとえばウェブの閲覧履歴を指すときにも使えます。どのような順番で過去から現在に至るまで、サイトを閲覧してきたかの具体的なリストです。その積み重なりや時間の流れをhistoryと言います。それと比べると日本語の歴史という言葉は、もう少し茫洋とした感じ、過去の総和のようなイメージがあります。

インターネットということで言うと、日本でも一般閲覧ができるようになってから20年たちますが、そこでどんな歴史を刻んできたかというと、幅広いジャンルで、あまり真剣に歴史を刻んでこなかったという印象があります。商業や広告のツールであることが一番で、コンテンツに関して歴史を積み重ねてきた感じや、それを蓄積したり、リスト化したり、再利用したりという目的意識があまり強くない感じがしています。つまり過去を見るときの観点が意識化がされていないような。これまで日本発のインターネットの世界で、過去のアーカイブを見て圧倒されたという経験は多くはないです。

未来について言えば、日本語で未来について論じるのは馴染まない感じが少しあります。日本語で理想を語るのが難しいのと同じように。英語でvisionという言葉がありますが、これを日本語にするのがけっこう難しい。将来を見渡す展望だったり、その視野だったり、未来に込める意気込みや目標だったり、洞察力や先見の明だったり、、、でも一言でぴったり言い当てる言葉が見つからない。多分、ビジョンとカタカナで言ったほうが、意味するところは伝わりやすいかもしれません。

日本語のもっている時間軸というものがあるとすれば、人がものを考えるときそれに左右されたり、その時間軸によって思考の発展や進化が推し進められていくのかもしれないな、と思います。日本語に未来形がないこと、過去、現在、未来の時間軸に細かい区切りがなく、時間の捉え方が茫洋としている、あるいは漠然とした感じであること。それを言語の基本として、日々ものを考えているわたし、わたしたち。

もし、このような日本語で、もう少し細かい時間の区切りを意識してしゃべったり、書いたりしたら、何が起きるのだろう。そもそもそんなことは可能なのか?とは思いますが。

あっ、ここで思いついたことがあります。

日本語の時間の捉え方が茫洋としていて、日本語でいう「歴史」が何かひとかたまりのものに感じられる、、、そのわけは、ひょっとして年号の存在じゃないでしょうか?! 
....明治、大正、昭和、平成、令和.... 日本の時間軸は年号によっている。日本人の時間感覚は年号という区切りで仕切られている。どうでしょう。時間を細かく区切りたがるヨーロッパ系の言語を話す人々の多くは、キリスト誕生後という、たった一つの時間軸で生きています。

この思いつきが、言語における時間感覚の説明になるのか、、、わかりません。でもなんか関係あるかもしれない。ずっと考えていたら、いつかまた「あ、そうなんだ!」という思いつきが出てくるかも。。。。


*註:記事冒頭の「英語の文法で仮定法における時制の勉強をしていて」
ロンドン在住のイギリス人インストラクターによる上級文法コースで勉強しています。よってアメリカ英語と少し違う場合もあるかなと。時制について言えば、アメリカ英語の方がよりシンプルではないかと思います。たとえばイギリスでは現在完了形を使う場合も、アメリカでは過去形で言うなど。

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