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[インタビュー] モーリス、自身をかたる 1928年

音楽も生き方もエキセントリックだったフランスの作曲家、モーリス・ラヴェル。友人や家族に宛てた手紙、他の作曲家についてのコメント、レクチャーやインタビューなどシリーズで紹介します。
ファンタジー小説、評伝、ラヴェル本人の残したものの3部門で構成されるプロジェクト「モーリスとラヴェル」の中のコンテンツです。

エオリアン(自動ピアノ製作会社)でラヴェルが自作を録音する際、求められた自身についてのコメント(ラヴェルは友人のロラン・マニュエルにインタビューしてもらい、それをテキスト化することを望んだ)

 わたしは1875年3月7日、サン=ジャン=ド=リュズに隣接するピレネーの麓の町、シブールに生まれました。父は、レマン湖のほとりにあるヴェルソワの生まれで、土木技師でした。母は古くからのバスクの家系でした。
 生後3ヶ月のとき、わたしの家族はシブールを離れ、パリに住むようになります。以来ずっとわたしはパリに住んでいます。
 幼いながらも、わたしは音楽に対する(あらゆる音楽に対する)感受性がありました。父は普通のアマチュア音楽家よりずっと音楽を熟知していましたし、どのようにしたらわたしの音楽への関心や熱意を刺激し、伸ばせるかを知っていました。
 ソルフェージュ(これをわたしは学んだことがありません)の代わりに、6歳でピアノを学びはじめました。先生はアンリ・ギース*、それに続いてシャルル・ルネで、ルネ先生から和声、対位法、作曲を初めて習いました。
 1889年、わたしはパリ音楽院の、アンチオーム先生のピアノ準備科への入学が認められました。その2年後には、シャルル=オーギュスト・ド・ベリオのクラスに入りました。

*アンリ・ギース:『アマリリス』の作曲家として知られる。

最初の作曲

 初めて書いた作品(未出版)は、1893年頃のものです。その頃わたしはペッサール先生のハーモニーのクラスにいました。ピアノのための『グロテスクなセレナード』にはエマニュエル・シャブリエの、『愛に死せる王女のためのバラード』にはサティの影響が明らかに出ています。
 1895年にわたしの書いた作品が、初めて出版されました。ピアノ曲で『古風なメヌエット』と『ハバネラ』です。『ハバネラ』には、のちの作品でよく使われる、いくつかの要素の芽が含まれていたと思います。

 1897年、対位法とフーガをアンドレ・ジュダルジュに学んでいたとき、ガブリエル・フォーレの作曲クラスに入りました。貴重な技術を学ぶことができて、アンドレ・ジュダルジュには大いに感謝しています。フォーレについては、わたしが彼から得た音楽家としてのアドバイスは、何よりも大きな励みになりました。
 わたしの未出版のオペラ『シェエラザード』はこの時期の日付があります。この作品にはロシア音楽の影響がかなり出ています。わたしは1901年にローマ賞(フランスの作曲家コンクール)を受け、第3位になりました。その後の1902年、1903年にも挑戦しましたが、1905年、審査委員団は、最終審査からわたしを締め出しました。
 1901年に書かれた『水の戯れ』は、あらゆるピアニスティックな工夫の始まりとなり、わたしの作品の中で注目されるものとなりました。この作品は、水の音、泉や滝や川の流れがつくる音楽的な音響に着想を得たもので、ソナタの第1楽章のように二つの主題が示されますが、クラシック音楽の調性感には沿っていません。

 弦楽四重奏ヘ長調(1902〜1903年)には、音楽構造への関心がすでに現れていますが、まだ不十分なところがあり、とは言え、わたしのそれ以前の作品と比べればずっと明快に現れています。『シェエラザード』(1903年)の中には、ドビュッシーの影響がかなり見てとれます(少なくとも精神において)。そして再び、子どもの頃から虜になっていた東洋の魅力に、わたしは支配されました。
 ピアノ組曲『鏡』(1905年)では、ハーモニーにおけるかなりの進化を遂げました。この曲は、それまでわたしの音楽に馴染んでいた音楽家たちを動揺させました。この中で最初に作られた曲、そしてわたしが思うに一番特徴的な曲は、第2曲の『悲しい鳥』です。この楽曲でわたしは、夏のいちばん暑い時間帯に、暗く陰気な森の中で、倦怠に飲み込まれる鳥たちを描きました。

(アービー ・オレンシュタイン編 "A Ravel Reader: Correspondence, Articles, Interviews"の'An Autobiographical Sketch'より/訳:だいこくかずえ)
*これはラヴェル自身による話をまとめたもので、年号などに間違いがある場合も、訂正はしていません。



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