見出し画像

Happy Birthday to ME :)

私は今から45年前の今日―

1975年(昭和50年)7月22日 午前11:23分に地元の青木産婦人科で産声をあげました。

私は母の第二子で長女。母は妊婦時代に激太りして、体重が90キロを超えてしまい、産道に脂肪がついて(母がそう申していました。実際、産道に脂肪がつくのかは調べていません。)、超〜ぉ難産で私が産まれたと。

産婦人科の先生は母の容態がよくなかったので、私を取り上げるやいなや、

「母親の方が大事だ。あかごば、新聞紙の上さ、なげでおげっ。」

どれくらいの時間、私が新聞紙の上に置かれたままだったのか、母がどれくらい危険だったのかは、すでに他界しているので、知る術がないのですが、風邪をひいたり、具合が悪くなって、青木先生の所へ診てもらいに行くと、先生は必ずこういって私をからかいました。

「おー、昌子が。お前の背中さ、新聞紙のスミっこ、まだついでらが?」

「お前の母さん、お前なすとき、大変だったスケ、お前ば、長い時間、新聞紙の上さ、なげでおいだんだじゃ〜。新聞紙の墨、まだついでらんじゃねえが?背中、みせでみろ!」

私はキィーっとして、「ついでないじゃっ!」と先生を睨みつけました。

子供心になんてひどい先生だ。最悪ッ!

毎回同じセリフを言われる度に、病院からの帰り道は必ず母にあの先生大嫌い!と。

母は微笑みながら、決まってこう返しました。

「でも、青木先生がいながったら、お母さんも、昌子もいながったがもよ。」

母のその言葉には何も返せず、その時はふんと口を結ぶしかありませんでした。

今、母になり、子育てをしている中で、その青木先生の話した言葉の意味が非常に深いと感じています。


上の子(Step Son)のお母さんは出血多量で出産後、すぐに亡くなられました。Step Sonを授かるまでに不妊、流産を繰り返し、やっと授かった子供を抱く事は出来なかったのです。

自分が産んでみて、彼女の事を思うと複雑な気持ちになりました。

自分で育てたかっただろうな。

おっぱいあげたかっただろうな。

またStep Sonはじへいしょうなので、障がいがわかっていたら、余計に自分で育てたかったんじゃないかなとも思うこともありました。


妊娠してみて、この子の為なら、自分がどうなってもと思う事がありました。

でもそれではいけないのです。

授かり、産む事も大変だったけど、それ以上に育てる事はもっと大変だから、お母さんは強くなきゃいけない。

毎日そう自分に言い聞かせてます。

話はお題にもどりまして、、、

大学生になり、上京した後の事です。

誕生日は母に産んでくれてありがとうを伝える日だという記事を目にしました。

(え?そうなの?)🧐

照れくさかったけど、すぐに行動に移して、母にありがとうと電話で伝えました。

電話口で母は「そっか、今日は誕生日か。昌子をなすときは、死ぬ思いで産んだったなあ・・・。」

母の言葉に新聞紙の上におきざりにされた赤ちゃんの自分を思い浮かべながら、胸がジワーッとしたものです。

毎年くる誕生日。今年も同じことを思い浮かべました。

おかあさん、死ぬ思いして

わたしを産んでくれてありがとね~❤。




Kindleで本を買います⭐そしてまた書きます⭐⭐