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心がふさぎこむことについて、少し分かったこと

「あのね、心が回復してから出かけるんじゃなくて、出かけるから心が回復するのよ」

市役所へ私を連れて行く車中で、母がそんなことを言った。
外を流れる景色──白い壁の新しい家や、シャッターの降りたアンティーク家具のお店、町中の花壇を眺めながら、なんとなくそうなのかもしれないと思った。

障がい者手帳を使えば、出かけるための様々な支援がうけられるという。
入院中に、どれだけのことができるかを教えてもらった。
けれど自分には必要のないものな気がして、受取は後回しにしていた。

心というのは、とらえどころがない。頭であるべき姿を思い描いても、必ずしもコントロールが利くものではない。それどころか、自分の意志に反して体を支配さえしてしまう。

退院したあと、はじめに戻ったのは味覚だった。
甘いものを自分から食べたいと思ったし、クッキーを目にすればコーヒーを淹れようという気持ちにもなった。

半年が経とうとしている今、自分の感覚が少しずつひらいてきているのを感じる。看護師さんと話す金木犀やクチナシの花の話題に、記憶がよみがり、またその香りを確認したいという気持ちになっている。

「心がふさぎこむ」というのは、きっと感覚が閉じてしまうことなのだ。
美味しいだとか、綺麗だとか、甘い香りだとか、頬に触れる風だとか──そいうしたものを感じたいと思わなくなる。だからそのために動くこともなく、いよいよ感覚は自分の身体から遠ざかっていく。
以前の私は、もっと自然を美しいと感じていたのではなかったか?

私のバッグには、市役所から受け取ったタクシー券が入っている。
1メーターで行けるところを色々考えてみたけれど、自然公園がいいと、ふと思った。

自然は、よく動く。とてもゆっくりと、けれど人間の生活圏よりははるかに速く、その姿を変えていく。そういえば人の心も、そうして絶えず移ろっていくものなのだと、そんなことを思い出した。

息子がグレて「こんな家、出てってやるよババァ」と言ったあと、「何言ってもいいが大学にだけは行っておけ」と送り出し、旅立つその日に「これ持っていけ」と渡します。