深海と呼吸
息を吐く。細く、長く。
体内の酸素を使い果たさないように、慎重に。
少しの目眩のあと、じわじわと過去が積み重なるのを感じる。
人のものさしでいうところの、過去。
じっさいには、どこにもないはずの、過去。
記憶を頼りに、思い出の横に線を引く。
「じつに滑稽なり」と。
眼の前がチリチリと点滅する。
狭まっていく視界に、確かに珊瑚が見えた気がした。
ベルトのバックル、ケーブル、床のホコリ。
私の世界が絨毯と鼻先だけになったとき、母が隣で泣いていた。
初めて海に潜ったとき、恐怖とともにあったのは恋に似た感情だった。
姉妹に王子を刺せと言われた人魚は、血の匂いを思い浮かべただろうか。
6歳の私にも、白馬の鞍が海水に適さないくらいの心得はったのではないか。
ゆっくりと沈んでいく先に何が残るかなんて、今の私には知る由もなく。
息子がグレて「こんな家、出てってやるよババァ」と言ったあと、「何言ってもいいが大学にだけは行っておけ」と送り出し、旅立つその日に「これ持っていけ」と渡します。