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消えた森の都 2010年とその65年前

仙台の戦災復興記念館が将来的に廃止され、その音楽、文化ホール機能は「震災記念」の新たなホールに引き継がれる。一方「戦災記念」はどこへ? 

その問題の「(仮称)国際センター駅北地区複合施設基本構想」でパブリックコメントが今日まで募集→ https://www.city.sendai.jp/shinsaifukko/hukugoushisetsu/kentou/kentoujyoukyou/publiccomment.html?fbclid=IwAR0QIPypZC_UhiOA02Frlo0TiHEpzTzNDYv4mkyUSNCw-jelcAOpt-kS-x8_aem_th_AXTfW38V0gS5p6c24mz6cGVSztBVbxFaEE_sVSxsOKUNHxDcD5-Dg633u7TWUPuc35o


「震災」の一年前の夏、仙台で学生してましたが、戦災復興記念館を訪ね、たまたま出会ったおじいさんから印象深い話を聞きました。

その時の記録が出てきたので、以下に転載します。

「北六番丁通りに差し掛かったとたん、一面が焼け野原となり、すっかり変わり果てた街が、裕輔の前に開けた。
いや、もはや、街とは言えなかった。杜の都と呼ばれる仙台は、完全に焦土の街と化していた。燻ぶり続ける瓦礫の山がどこまでも連なり、ところどころに、焼け残った土蔵が、雨上がりにひょっこり顔を出した茸みたいに建っている。
・・・見通しがよくなったため、普段ならこの場所から見えないはずの三越デパートや県庁、あるいは市役所など、鉄筋コンクリート造りの建物が、野焼きしているような淡い煙を透かして目にできる。
一方で視線を下に向ければ、瓦礫の隙間に、あるいは道端に、逃げ遅れて黒焦げになった人間の死体が無造作に転がっていて、見たくなくとも目に飛び込んでくる・・・」熊谷達也『いつかX橋で』


1945年7月10日午前0時3分。
仙台市街地に、B29による大空襲。
森の都が消えた。


今日は、少し時期がずれたが、仙台市戦災復興記念館に行った。
サークルの演奏会で常に使っている場所だった。しかし実際に展示室に入るのは初めて。

展示は、戦前の仙台の姿の説明から始まる。
城下町の誕生、軍部の設立、県立図書館や七十七銀行本店などの西洋建築建設。

戦災を受けた地域の図があった。
西は、現在県立美術館、川内、亀岡。東は、仙台駅西口前まで。
北は、県庁を越えて国道48号線よりやや北。南は現在の地下鉄五橋付近。
まさに仙台市街地全域が焼かれた。


戦後、国連連合軍が駐留。
復興計画もスタートした。
失われた森を取り戻すために、新たに「杜」をつくる。

そもそも仙台の森とは、青葉山や河川敷の木々と、防風のために植林された武家屋敷の木々だった。
戦火で、屋敷森は消えた。

今、杜のシンボルは、定禅寺通りの4列ケヤキ並木である。
昭和35年には、一通りの整備が完了。
公会堂やレジャーセンターなど娯楽施設も生まれ、町は復興していった。



「なぜ、空襲が来たか分るか。」


展示室の入り口に坐っていたおじいさんが声をかけてきた。
「空襲が来た理由ですか。」
「この展示室は、空襲の原因は説明しているか。」
少し周りを見渡した。
「空襲前の街並と、復興を展示しています。」
「だろう。被害の歴史は説明しても、加害の歴史は説明しないのだ。」


おじいさんは、中国の侵略、朝鮮への創氏改名、やすくに神社のこと、なんきん事件のこと、そしていまだ不十分と思われる戦争責任・謝罪について話してくれた。
話は、現在のことにも及ぶ。沖縄基地問題、中国の軍事力の問題と抑止力、日米同盟について・・・


「日本人は色でいうと、何色か分るか?」
「さあ。」
「玉虫色だよ。方々で違う色に輝く。まわりに流されて、意見が言えないのだ。今も変わっとらん。」


おじいさんは、満州で18のときに徴兵され、20のときに終戦を迎えた。
終戦の知らせは2,3日遅れて届いた。
ソビエトにより、約60万人の日本人は捕虜とされ、シベリアに抑留。
おじいさんは、2年シベリアにいたという。
食事は、ジャガイモ数個など。
「ああ、ぼたもち食べたいなあ。お米たべたいなあ。そんなことばかり考えた。若かったが女のことも頭に浮かばなかったよ。」

シベリアの暮らしは大変だった。強制労働があった。
長らく、強制労働の補償金について議論があった。(捕虜の補償金は、捕虜の母国、つまり日本が払う。)
今年5月にシベリア特措法が成立し、1人あたり25万円以上支給されることになった。戦後65年が経とうとしている。


仙台に引き上げたのは、2年後。まだ瓦礫が残っていた。
米国兵に寄り添い、果物や高価を手に入れる女性も多くいた。
幸い実家の両親は無事だった。数年間、家で過ごした後、仕事を見つけ働く。

戦争について話そうと思ったのは、昭和57年に戦災復興記念館ができたことがきっかけ。退職後の人生を戦争体験を伝えることに費やそうと考えた。戦時中、アメリカや中国、朝鮮に対して差別的態度をとっていた。
戦後、函館に着き、アメリカ人を見たときに、瞬時に差別的な感情が沸いた。「教育の力は怖いよな。」と。

約1時間くらい話した。
思えば戦争体験を1対1で聞くのは初めて。
65年を迎える今。戦争体験者と会う機会は少なくなる。今後いかに彼等の体験を伝えるか。

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