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雨を告げる漂流団地観た -現代の子供たちの絶望は重い-

子供向け映画の皮をかぶった何か

ネトフリに追加されたのを加入している友人が見つけたので見させてもらいました。僕はArcaneの時だけネトフリ加入してました。
結論から言うと、面白かったです。画作りはスタジオコロリドの自主企画映画っぽかったので当然めちゃくちゃ気合い入ってましたし、とにかく俺は小学生が描きたいんだ!!!!という熱意がキャラクターの躍動からものすごく伝わってきました。ストーリーもびっくりするくらい綺麗にまとまっててシンプルに見ごたえがある。親心的にマジで見てて主人公たちの行く末が気になるくらい。

作品を見ながらいろいろ思うところ気になるところがあったので書いていきます。
おそらく、ドラえもんやクレヨンしんちゃん、河童のクゥと夏休みとかのような、夏休みに親御さんと一緒に見てくれ系の子供向けの映画かなあと思って見始めたら、全然そんなことないやん新海誠作品みたいなことがやりたいんか?と思ったらやっぱり子供向けの映画に帰ってきました、みたいな作品でした。
子供向け映画の皮をかぶった何か、という感じでした。

※以後、めちゃくちゃネタバレするので注意してください。











あらすじ

まるで姉弟のように育った幼なじみの航祐と夏芽。
小学6年生になった二人は、航祐の祖父・安次の他界をきっかけにギクシャクしはじめた。
夏休みのある日、航祐はクラスメイトとともに
取り壊しの進む「おばけ団地」に忍び込む。
その団地は、航祐と夏芽が育った思い出の家。
航祐はそこで思いがけず夏芽と遭遇し、謎の少年・のっぽの存在について聞かされる。
すると、突然不思議な現象に巻き込まれ――
気づくとそこは、あたり一面の大海原。
航祐たちを乗せ、団地は謎の海を漂流する。
はじめてのサバイバル生活。力を合わせる子どもたち。
泣いたりケンカしたり、仲直りしたり?
果たして元の世界へ戻れるのか?
ひと夏の別れの旅がはじまる―

https://www.hyoryu-danchi.com/

青春映画とは

いわゆるこういう夏休みによくやってるような青春映画というのは3種類あると思っています。つまり、

  1. 「ひと夏の思い出系」。ドラえもんとかクレヨンしんちゃんとか。「遊園地で友達と遊んだ」の延長みたいな、大事な思い出としてしまっとくみたいなやつ。

  2. 「第二次性徴系」。子供特有の「男なんて/女なんて…」を乗り越えて恋愛感情に気付くタイプのやつ。

  3. 「ジュブナイル(ティーンエイジャー)系」。新海誠作品とか。子供が大人へと成長していく過程を描いた作品(必ずしも恋愛感情を伴わない)。

だいたいの場合、どの作品に属するか、というので視聴層も変わってくると思っていて、1.は小さい子供と親御さん(ドラえもんやクレヨンしんちゃんは、特に子供向けと見せかけて親に刺してくる作品がちょいちょいある)、2.は学生や若いカップルとか、ラブコメみたいなのを見に来てる人、3.は基本全年齢向けだけど学生や大人・オタク向け。
今回の作品は、ガワは1.みたいなんだけど、節々に透けて見えるやりたいことが3.なんかな?っていう感じ。だから、結構見てて「誰向けの映画なんだ……?」という感想でした。

この分類自体僕が勝手に作ったものではありますが、見分け方は結構簡単で、「作品のオチやテーマがそれぞれの特徴を伴っていること」、「作品に含まれるメインの登場人物の年齢層や、表現・動きが対象年齢層にマッチすること」です。
1.はキャラクターの人間的成長を伴わない(≠トラウマの克服)ですし、2.3.のうち恋愛感情の自覚があれば2.、キャラクターの明確な成長描写(作品の最初と最後でキャラクターの価値観が変わっている)があれば3.だと思っています。
当然メインで出てくるキャラクターが小学生ばかりなら第二次性徴前の1.でしょうし、学生だけでなくキャラクターが規範とするような大人が存在するなら3.です。クレヨンしんちゃんなんかはわかりやすいですが、子供が見て笑いやすいように下ネタとかお約束のネタをいくつも混ぜたりしています。
今回は「作品に含まれるメインの登場人物の年齢層や、表現・動きが対象年齢層にマッチすること」がかなり明確で、この作品の9割は小学6年生で構成されています。はっきり言ってこれだけで子供向け映画だと断言できる。大人ではこの主人公たちにちゃんと感情移入できないし、逆に子供は大人が出すぎると大人たちの考えていることを想像できないからです(ただ、まあ制作会社がとにかく小学生を描きたいから描いてる、という可能性もなくはない、今回は露骨だったのでそういう面もあるかも)。

ただ、これを揺らがせる要素があって、それは「あまりにもストーリーが重すぎる」ということです。

子供向け青春映画ではありえない表現

本当に、本当に異常に暗い

子供というのはある種能天気なものだと僕は思っています。年を取れば取るほど、人生には取り返しのつかないものが増えていきますから、世を儚んで死を思うことはありましょう。でも子供というのはまだ大人の保護を受けている身ですから、自分で人生を選択することはほとんどありません。「自分がどうあるか」ということについて考えを巡らせる機会に乏しい。
作中でもそういう面は出ていて、絶海の孤島で食料も尽き、明日を生きられるかもわからないという状況で、「自分たちはいずれ死ぬのだ」という絶望で一歩も歩けなくなる、ということはない。ブタメンとポテチしかないしだんだん量も減ってくけど、とりあえず今日を生き延びよう、と何となく楽観できる。

ただ、この作品はあまりにも「死」のイメージが強すぎる。そもそも、絶海の孤島に漂流して、あてもなく日に日に減る食料、助けがあるかもわからず、いつ来るかもわからない他の島と、真綿で首を絞めるようにジリジリと「死」を意識させるような展開がヤバすぎる。青春映画でそんなガチサバイバルさせることそうそうなくない?
団地含めて、大量の「廃墟」が出てくるというのも「死」のメタファーに見えます。安じいは既に死んでいます。珠理は一歩間違えば死ぬほどの怪我を負いますし、まあまず映画の最初にあわや夏芽が死ぬか、というシーンも見せられているわけです。
青春映画に生命のピンチはまあありがちですが、今作のこの「死」への意識づけの頻繁さ、リアリティは、他の作品においてはあまり見たことがないレベルだと感じました。

また、「雨を告げる」というタイトルからもわかるんですが、この作品は中盤以降ラスト直前まで、非常にライティングが暗いです。
基本的に曇りか雨か夜かでシナリオが進行するので、メインメンバーの顔にはほぼ常に陰が差しています。それは主人公たちのこれからへの不安感や互いへの不信感のようなもの、シナリオとしての「転」を表しているかもしれませんが、それにしてもあまりにも暗すぎる。その分終盤の解決シーンでの明るいライティングが映える、という映像的な効果もあるんですが……
でも、見ているときの感想としては、「なんでこんなに作品全体が暗くて重いんだ?」ということでした。

怪我が多すぎる

この作品はめちゃくちゃ小学生が怪我します。ドラえもん映画でもまあのびたとかが擦り傷まみれで泣きながら叫んでるシーンとかしょっちゅうありますが、この作品の怪我はマジで血とかどっぷり出る受傷ガラスで膝切るシーンとか、振り子式で投げ出されて頭ぶつけるシーンとか見てて痛え。

ジュブナイル作品とかであれば、治らない傷が一種のスティグマとしてこれからの人生も残っていく、というのが意味を持ったりしますが、この作品はあくまで「ひと夏の思い出系」ですから、マジで血が出る大怪我はよくないわけです。というか子供が見るような映画でやべーマジ痛ェってなるシーンがあるのそうそうないでしょ。知る限りはない。

ていうか、小学生がガンガン怪我するって作品としてそんなに存在してなくない? 僕はこれ見てる間「倫理観で綱渡りしてんな……」って感想でした。

夏芽の生い立ちが重すぎる

おそらく、母子家庭がもたらす問題、というのは現代ではそう珍しい話ではないんだと思っています。僕が子供のころは母子家庭なんてそうそうなかったですし、それをカミングアウトすることが恥ずかしいことだとも思っていました。でも今は不景気も手伝って共働きが普通(「団地」という題材、親が金持ちでフロリダ旅行予定の令依菜の存在がまた貧困差を間接的に表している)で、家庭内不和もよくある話、母子家庭も増えているという話ですから、わざわざカミングアウトするほどでもないのかも、と思っていました。

何が言いたいのかというと、これを見るような層の子供たちにとって、おそらく母子家庭というのは十分感情移入可能な社会問題なんだろうと思った、ということです。親が仲悪くて怪我しているのをよく見ていて、自分(子供)の居場所がないと感じる。その延長線上で、学校の中でも自分の存在に劣等感を覚えて、立場をなくしていく。自分が世界にとって必要とされていない、という感覚になる。
だってそれが普遍的じゃないと生い立ちが重すぎるから。現代の子供たちが夏芽と同じように、自分なんて要らないんだ、という悩みを持っていないと、いくらなんでも夏芽に感情移入できないから。中盤、自分が家族や友人たちにとって意味のない存在だと自分を定義してしまうために、自分を必要としてくれる「のっぽくん」へと寄っていく描写がされています。「愛されていない子供」の承認欲求の歪みがものすごくちゃんと描写されていると感じます。でもそれが共感できる子供たちがいっぱいいるって、やべーよ。子供が自分で自分を「死んでもいい」って言うのか。

当然、小学生特有のちっぽけなプライドのようなものを乗り越えて、航祐が自分の思いを夏芽に打ち明けるからこそ、夏芽はその自分のトラウマを超えて、自分をようやく肯定できるようになるわけです。それはひとつこの作品が描きたかったテーマのひとつなんだろうなと思っています。自分の在り方に歪みを持っていたもう一人である令依菜も、遊園地の廃墟を通して矯正を得ることができている。ここだけ見るとマジでジュブナイルのやり方なんですよね。でも彼らはまだ二次性徴も迎えていない子供なので、トラウマを克服できても、それが彼らを「大人」へと導いてくれるわけではない。ただ、ちょっと前を向いて素直に生きていけるようになる、くらいでしょう。

ラストを普通に読み違えた

あまりにも作中の死の描写が多すぎるので、てっきりこの作品は序盤の団地で手を離したシーンが重要で、「夏芽が死ぬかどうか、航祐も一緒に死んでしまうのか、あるいは団地の不思議パワーで(「ひと夏の思い出系」でありがちな感じで)2人とも無事に助かるのか」、みたいな話なんだと思っていました。航祐が掴めと伸ばした手を、一度は拒否した夏芽が今度は取ることで、運命を変えることができる、みたいな。
この作品、夏芽がめちゃくちゃ何度も怪我するとか、珠理が一歩間違えば死ぬような怪我をするとか、そこらへんに必然性があんまりないんですね。4, 5階建ての団地から落ちてもし助かったとしても身体じゅう大怪我なので、絶海の団地の世界がもし夏芽の走馬灯のようなものならば、夢の中で現実と同じ怪我をだんだんと負っていく、という話でもおかしくないだろうと。ただ、この理屈だと珠理が受傷している理由がやっぱり説明できませんでした。マジで珠理だけが大怪我をしている理由がまったくわからない。他の2人と航祐は大した怪我はしてないので。
夏芽の夢説の後ろ盾のひとつは、団地含めてすれ違う建物に夏芽関連の施設が多すぎること、それらの施設には「のっぽくん」にあたる存在がないことでした。ただ、これも後で瓦解しますし、結局団地の世界は本当に存在していて、夢でもなんでもなく珠理は頭に大怪我を負ったまま帰りました。

これが良いか悪いかというとむしろ全然良くて、こんな展開は逆に僕の頭でも閃くようなものなので、存在しない方がいいと思います。そもそもが「ひと夏の思い出系」なので、そんなに重い荷物を背負って現実に戻る必要なんてないですからね。

面白いので見よう

と、いろいろ書きましたが結論面白かったです。映像美もいいですし、ストーリーも見ててヒリつくガチサバイバルなので、単に見ごたえがあります。
まあそもそも子供向けじゃない可能性もありますしね。これを書くにあたってホームページを見てますが、「みんな誰しもが感じた事があるかもしれない思春期の時の心の揺れや複雑な想いが詰まっています。」って表現があるので実際大人に見てほしい映画なのかも。ホームページの各界からのコメントからも、作品の団地の書き込みや小学生たちの躍動について深く書かれているので、それが描きたかった、というだけかもしれない。というか、実際そこだけ注目して見てても十分見ごたえがあると感じています。
正直、この作品がなぜnetflixに追加されるまで耳に入らなかったんだろうなと思っています。僕のアンテナが弱いだけか?

ぜひご覧ください。

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