ギャッツビーの思い出

グレート・ギャッツビーは、20世紀アメリカ文学を代表する小説です。
私は30年ほど前に、宝塚歌劇団の舞台「華麗なるギャッツビー」という作品でこのお話と出会い観劇後に小説を読みましたが、アメリカ文学独特の雰囲気に当時はなじめず、舞台の記憶だけが残りました。(その後主に映画を通して徐々に慣れていきましたが、今でもヨーロッパ文学の方が好みではあります)

今年の夏に宝塚大劇場で「グレート・ギャッツビー」として再演とのこと。楽しみにしていましたが、残念ながら劇場のクローズで観劇できず。想いを文で消化してみようと思います。

当時の雪組トップスターさんは背中で男の哀愁を表現する天才で、今も彼女の背中に宿った哀しみに涙したことを鮮明に記憶しています。一人の女性を愛し抜くことに生きる意味を見出した男性を当時は若かったのでロマンティックな感性で受け止めていましたが、今は一人の人間の魂の具現化として理解できるし素敵な生き方だなと思います。自分の思いを通すために反社会的な道を選んだことで、破滅的な最後を迎えるわけですが、(どうやって死ぬかは=どうやって生きるかに通じることが多い)それでもギャッツビーが生きたかった人生は全うされたし、ある種の満足があったと思うのです。

今の私は、反社会的な方法を取らなくても、あれほどの思いがあれば別の形で想いは結晶化したのでは?と思いますが。そして彼が愛し抜き守り抜いた女性デイジーは共感するのが難しい、美貌だけが取り柄のわがままな女性。もう若いころは全く理解できませんでしたが(笑)、多分今なら共感できる部分が多々あるのでは?と思います。2人の再会のきっかけとなるニックの凡庸な個性も、以前は興味を持てなかったけれど、多分今なら平凡の良さが感じられると思います。観劇できなくて残念。またいつかどこかでこの先品に出会えることを願って…

興味ある方はロバート・レッドフォードバージョンの映画をお薦めします。

hisako

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