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今日でおしまい

昨年の5/15から始めた「5がつく日に1,000字でエッセイを書く」が、今日でちょうど1年になる。あっという間の1年だったが、最近は忙しすぎるせいか、加齢のせいか、文章がうまく書けず、ただノルマを果たしている状態だった。

なので、1年を区切りに、このエッセイは今日でおしまいにしようと思う。読んでくださった方、「スキ」してくださった方、本当にありがとうございました!

最後に書こうと思うのは、両親のことだ。
先日、久しぶりに両親のお墓参りに行ってきた。私の父は38年前に、母は7年前に他界している。東京の外れにあるお墓に車で1時間かけて行ったあと、そこから徒歩5分の私の生家まで足を延ばした。

その家は築50年以上の古い家で、今から17年前に母が弟家族と別の地で同居することになったとき、売りに出し、そのときの買い手がほとんど手を入れずそのままの形で今も住んでいる。

狭い庭に柿の木がある。渋柿である。母が住んでいたときは、毎年渋抜きした柿を私たち姉弟に送ってくれていた。柿があまり好きではない私は、ありがたいとも思わず、ただ事務的に受けとっていたような気がする。母が自分で実をもぎ、焼酎につけて渋抜きをしていたのだから、もっと感謝して食べればよかった(と今になって思う)。その柿の木が今も健在だったので、何か懐かしさを感じて帰ってきた。

父はおだやかな性格で子煩悩で優しい人だった。読書、将棋、草野球など、趣味も多く、ユーモアがあって、人から慕われていた。
母は常に家にいる人だった。子育て中は特に趣味もなかったようだが、私たちが独立してからは、地域のダンス教室、ヨガ、書道教室などに通い、いきいきと暮らしていた。

私たち4人の姉弟を大切に育ててくれた両親には、感謝のことばもないくらい感謝している。今、生きていたら、この気持ちをきちんと伝えられるのに、と残念でならない。

実家の柿の木を久しぶりに見て、両親のことが強く思いだされた。柿の木は特に立派でも美しくもないが、あの柿の木こそ両親そのものではなかったかと思う。ただ、そこにあったものだった。そして、その実(愛情)には何のありがたさも感じず、当たり前だと思っていたが、今になってありがたさがじんわり響いてきている。

お父さん、お母さん、あなたたちの深い愛情に包まれて生きてきたことは私の誇りです。どんなことばを使っても伝えきれないけど、本当にありがとう!

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