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くそメンヘラ女子大学生〜死にたくなった夜〜

孤独で死にそうになった夜があった。ほんとうの意味での孤独を私はまだ知らないのだろうけれど。

デュルケームは『自殺論』で、カトリックよりもプロテスタント、農村よりも都市、既婚者よりも未婚者の自殺率が高いことから、個人の孤立を招きやすい環境において自殺率が高くなることを示した。確かに、自分のためだけの孤独な命だったら、生きていなくてもいいんじゃないかって思ってしまうと思う。

自分のためだけに毎日豪華な夜ご飯を作りたいとは思わないけど、例えば愛する家族のためだったら面倒くさくても少し豪華なものにしようと思えるかもしれない。生きる活力も同じで、そういうちょっとした"誰かのために"の気持ちから、少しずつ湧いてくるのかもしれない。

その"誰か"というのは人によって違くて、例えば近所のおばあちゃん、両親、彼氏なんかでもいいし、あるいはもっと広い不特定多数の誰か、それこそ世界平和のためでもいい。今考えれば自分の周りのかっこいいなと思う人(生きる活力がある人)は、"誰か"のためになにかしようとしてる人たちなんだよな。

では、自分にとっての"誰か"は誰なのか、少し考えてみたいと思った夜でした。『自殺論』は初めて読んだ社会学の古典で、社会学に興味を持ったきっかけの本です。この時間まで起きている(課題)と、ゾーンに入って思考回路が逝ってしまうのでだめです。でも普段から、けっこうこんなことを考えてます。

何かどうしようもないくらい辛いことがあったために「死にたい」と思って自殺する人もいれば、一般的に辛いとみなされるような出来事が起こっていなくても単に「生きたくない」と思って自殺する人もいるんじゃないかな。死んだ人に死んだ理由を聞くことはできないけど、私自身の意見としては、そう思う。「生きる理由を見つける」までは無理だし、そもそも生きることに意味なんて見出してもそれこそ無意味だと思うけど、「自分だけの命」を少し広く捉えて、「誰かからもらった命」「誰かのための命」と考えを転換することができれば、少しは生きる活力みたいなものが湧いてくるのかもしれないね。湧いてくるかはわからないけど。湧いてきたらいいね。

久しぶりに人に泣かされた。強くいなきゃいけないと思ってた。明日、目が腫れるかもしれない。明日まで、いや実質今日までの課題が、まだ終わっていないかもしれない(かもしれないじゃなくて終わってない現実)。けどそんなことどうだっていい。泣けたことに安心した。生きてるんだなって実感できた。

たまには感情を吐き出すのもいいな。


しらたま太郎

#デュルケーム #自殺論 #社会学

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