集団行動②

 集団行動が苦手なのは、今に始まったことではなかった。多分、自分が自覚するよりずっと前から苦手だったのだ。
「協調せよ」と、当たり前のように指示される場面では、殆どの場合違和感を拭えずに生きていた。当たり前とされるそれを、何の疑問も感じさせずに出来ている人々や集団を、何処か俯瞰しているような、そんな見方を気付かずにしているような…。常に『何故?』が付き纏い、反発する術すら知らずに協調しているフリをする場合であっても、そんな自分を気持ち悪く感じて仕方がなかった。
 かといって、わざわざ人と違ったことを無理なく出来るようなタイプでもなかったので、自分の苦手意識をはっきりと自覚するまでは相当苦しんだ。馴染めない、沿えない自分が悪く、おかしいのだと…。
 いつ頃かきっかけがあったのか、若しくは知らず知らずのうちに徐々に…であったのか、そもそも元々そうであったのか、はっきりとした自覚はないのであるが、〝協調する〟ということを無理にしなくなったように思う。しかしそうなれば正に、〝出る杭は打たれる〟という状態になる。目立つことは苦手なのに、協調性のある多くの人々にとっては、悪目立ちしたのかも知れない。私はありとあらゆる場面で打たれ捲ったのだが、打たれる理由が解らず、潔さや説得力といったものに欠けるそれらの手段がまるで理解出来なかった。また、何故そのような仕打ちを受けなければならないのか、それにすら無自覚だったのである。
 嫌な思いをする度、理解しようと努めたし、相手に直接質問してみたこともあったが、明確な答えは返って来なかった。当時は自分が、飛び出した〝杭〟で、周りがそれを〝打って〟形を整えようとする大工であることにすら、よく考えてみれば気付いていなかったのである。私の悩みはあまりに深く、ありとあらゆる人の意見や話を聞くうちに、その事実に気付かされたのだが、大工は自分達のしていることが正しいと信じていたのか、それとも悪質非情であるその手段を客観視しつつ、正義の仮面を被っているだけのその行いに内心恥じていたからこそ、私の追及には明確な答えを寄越さなかったのか、私は彼らではないので解らないし、今更もう解りたくもない。
 唯、集団行動が苦手で、協調性に欠けることを自分が自覚してからは、どのように生きられれば自分が幸せなのか、少なからずわかったのである。
 集団の中で違和感を感じて生きるより、孤独で寂しさを感じている方がずっと楽。集団職の中の一人職は、様々な意味で大変さはあるが、人間関係形成の上では常に一線を越えることがないため、必要以上にぶつかることが少ない。そしてそういう立ち位置が、自分にとても合っている。
 人生百年時代に突入し、その半分も生きていないことと、その半分以前で相当紆余曲折を経験してきた身としては、気付いたからとてその後、波乱が起きない保証はまるでない。唯、人生は本当に一歩一歩の道のりで、時に一進一退することはあっても、少しずつ少しずつ何かを消化して進んでいくのかも知れないと、自分という人間を理解しながら思う、今日この頃である。

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