肌蹴る光線「すべてが許される」

肌蹴る光線のオンライン上映にて、ミア・ハンセン=ラヴ監督作「すべてが許される」を観た。肌蹴る光線とは、「上映機会の少ない傑作映画を発掘し、広めることを目的とした上映シリーズ」で、毎回とても面白い作品を上映している。その第1シーズン最後の作品が「すべてが許される」だ。

前回上映された「コジョーの埋葬」はとても素晴らしく、こちらにも感想を書いたが(『映画「コジョーの埋葬」を観て』)、「すべてが許される」もまた印象的な映画だった。特に瞳が印象的だ。「ジャンヌダルク」よりも遥かに。

一人一人の中に一人一人の時間が流れているという当たり前がちゃんと忘れずに描かれていた。岸政彦の「断片的なものの社会学」にこんな文章がある。

私のなかに時間が流れる、ということは、私が何かの感覚を感じ続ける、ということである。--ある人に流れた十年間という時間を想像してみよう。それは、その人が十年間ずっと、何かの感覚を感じ続けているのだろう、と想像することである。私たちは、感覚自体を何ら共有することなく、私たちのなかに流れる時間と同じものが他の人びとのなかにも流れているということを、「単純な事実として」知っている。

それからこう書かれている。

私は、彼の十年は私の十年でもあった、というただそれだけのことが、私と彼のあいだに、何かの「会話」を、言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させているような気がするのだ。(岸政彦「断片的なものの社会学」"ユッカに流れる時間"より引用。)

これらの言葉は映画「すべてが許されている」のために書かれた言葉かのように作品に呼応している。物語が十一年後を描くとき、そこに現れる登場人物たちはみな十一年の時を過ごしていた。それぞれの十一年の生活と歴史が、それぞれの人生には刻まれていた。感情があり、思考があり、忘れていったものがあった。生きるというのはそういうことだ。つまりこの映画に出てくる人たちは「生きていた」。だからこそ瞳があれ程生々しく映るのだろう。

一人一人が一人一人の時間を生きていて、一人一人に一人一人同じだけの時間が流れているという当たり前のことが、この映画にはきちんと描かれていて、それはとても今大切なことに思えた。「言葉にも感情にもよらない無音の対話を成立させ」ることはとても大事だ。無論、言葉も大事だけれど、言葉で補うことのできない何かを見失ってはいけない。ささやかな想像力をこそ、ちゃんと失くさないでいたい。今も、これからも。

観終わった後、肌感覚が変わった気がした。映画館を出ると風がちがって感じられたり、景色が色合いを変えたりすることがある。あるいは自分が生まれ変わったような。その体験は限りなく永遠に近いような不思議な感覚で、あれを自宅の中で感じられることは少ない。忘れているだけかもしれないが、思いだせるのは子どもの頃のことだ。
ジャッキーチェンを見て、熱く燃えた何かを昇華しきれないまま、寝床に向かったことを思いだす。狭い自分の部屋の中キャスターつきの椅子で見えない敵と戦った。いつもより大げさにハシゴを上り、勉強机の上に設えられた寝床に跳び乗る。それでもすぐ眠る気にはならなくて、柵に両手と両足をつっぱって体を支える。布団の上に落ちれば作戦は失敗だ。ギシギシと音をさせながら、移動する。そうして飽きる頃には疲れて眠くなる。

最近映画をいっぱい見ているが、ああいう映画体験をしたのは久しぶりかもしれなかった。要するにいい映画を観たのだ。

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