この日々のことを覚えておくための日記4

2020/5/9 夜更かしも一周回って、早朝に目覚めている。朝方の空に月が眩しく光っていて不思議だった。薄青い空に黄色い月。ちゃんと外に出て確かめたいなと思いながらまた眠ってしまって、起きると、空は白く月は見当たらない。あれは夢だったのかと訝る。「明るい 月」でSNSを探ったら、同じように戸惑っている人が散見されて安心する。
似ているという感覚はあやしい。アイコンにそのキャラクターを使っているだけで友だちがそのキャラに似ている気がしてきたり、貸してもらった漫画の主人公に友だちを重ねたり、「目鼻立ちはお母さん似、骨格はお父さん似ね。」なんて言ったり、本当か?「似ている」という言葉で自分を納得させているとき、何かのバイアスをかけている気がする。正常化バイアスにも似たそれは、一体どういう心理的背景があるのだろう。
平成ガメラ一作目鑑賞、gyao無料配信にて。頭の中で先日観たエヴァが通奏低音を流している。エヴァと使徒、アダムとリリス ガメラとギャオス。

2020/5/10 平成ガメラの元になった、昭和ガメラを見る。つい魔が差してamazon primeに登録してしまったのだ。無料お試し期間に何を見るか。特撮を見よう。ガメラ対ギャオス、ガメラ第一作、それから岡本太郎が宇宙人をデザインした宇宙人東京に現る、と続けざまに見る。特撮はいいのだが、描かれる人間ドラマに不快感を持つ。女子どもの意見は聞かないというような。サザエさんが嫌いだったことを思いだす。

2020/5/11 日記を書く人が増えている。ここnoteでもそういった記事の数は圧倒的に増えているだろう。みなこの事態を忘れてしまう未来を知っているのだ。だから日記を書こうと思うのだろう。その日記を未来に開くことはあるのだろうか。劇的な事態は起こらない、この退屈な物語を再読しようとするだろうか。
とは言え、日記文学というものは好きで、中原昌也の作業日誌が特に。エッセイとも違う、生々しい思考の軌跡、精神の吐露が日記の魅力だろう。そこには確かに誰かが生きていた証のようなものが刻まれていて、なんだか心が落ち着くのだ。それに劇的な事態が起こらない退屈な描写ばかりの小説でも、面白いものは面白い。

2020/5/12 県境や国境、地図上に引かれたあらゆる境界について、ぼくは信用ならない、不自然なものに感じてきていた。大学で国際学部を選んだのも、その疑問からだった。(在学中、そんな研究は一度としてやらなかったが。)その枠線によって、何が示せるというのだろう。今、世界規模で起こる状況の中でその違和感がぼく以外の人にも共有されている気がする。私は日本人である、というアイデンティティが如何ほどの意味を持つのだろう。ウイルスを前に人は平等だ。マイノリティもマジョリティも国籍も性別も関係ない。平等だ。その間に違いはひとつもない。
日々は充実している。好きなことをして過ごしている。もちろん、ライブや演劇やらの空間を体験するような行為は、今できない。だから十分に好きなことができているとは言えないかもしれない。でもこうしてひとりの時間を持つことは、自分が本当に好きなものがなにかを見定めるいい機会にもなっている。ためていた本や、映画や、音楽や、漫画や、ゲームや、いろいろなものに触れて、楽しんでいる。作ってみたかった手間のかかる料理に挑戦したりしている。私は日々を楽しんでいる。この状況を歓迎するかのように。
友達に会えないことは心残りだ。しかしそれすらも楽しんでいる。普段、連絡しない人から連絡がきたりする。ぼくも昔の知り合いに連絡したりする。そうして新たな交流が生まれているのもまた事実だ。
孤独は美しいものだ。ぼくはこの日々の中で孤独に向き合えている。これもまた歓迎すべき事態だ。
人が死んでいる。困窮している人がいる。だからこの自粛の中で日々を歓迎することは許されないのかもしれない。しかしこの状況がやってくる前に、ぼくは如何に自分の時間を、社会に奪われていたのかと感じなくもない。薄れていた自分の輪郭が徐々に戻ってきているように感じる。

2020/5/13 何も書けなかった。

2020/5/14 何も書けなかった。

2020/5/15 何も書けなかった。

2020/5/16 何も書けなかった。

2020/5/17 何も書けなかった。

2020/5/18 何も書けなかった。

2020/5/19 何も書けなかった。

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