肯定と否定と

ぼくはnoteに今まで三回、否定と肯定について考えたことを投稿している。ずっと葛藤している。今日眉村ちあきのワンマンが渋谷WWWであって、そこで披露された曲に触発されてまた考えが沸いてきたから、書き留めておく。多分ずっと答えは出ない。

三つの記事  「誰かを否定したり自分を卑下したりしないお笑い
       「鉄腕アトム。
       「肯定はカウンターカルチャーだ!」       

それらの記事の中で自分の中にある怒りや苛立ち、悲しみも、否定の感情と言っていた気がする。でもそれらは負の感情であっても、否定の感情ではない。それを肯定に変換して表現すること。それはぼくにとって大事な表現方法だった。そこで行っていたのは負の感情そのものを否定すると言うことだ。だからその「肯定」は本質的に否定であると気づいた。怒りはそこにある、苛立ちはそこにある、悲しみはそこにある、それを変えてはいけなくて、負の感情を乗り越えたとしても、肯定に変換するのとは違う。表現としてポジティブを打ち出したとして、そこにあるネガティブが変換されたわけじゃない。そこにネガティブがあったからこそ、たどり着けたポジティブと言おうか。そこにあるネガティブを忘れてはいけない。

そうするとある表現において負の感情は必要と言うことになってしまう。怒りや悲しみがあった方がいいなんてことはあり得ない。だってそんなのは嫌だ。

どんな人にも一様に暗さがあると思う。一様に明るさがあると思う。もちろんグラデーションはそれぞれ違うけれど。明るさの中に時折見え隠れする暗さや、暗さの中に時折見え隠れする明るさは美しく、人を魅力的に見せる。だから暗さをただ否定するのは違う。胸をしめつける暗さを肯定するのも違う。

人の暗さにこそ、人は共感すると思う。自分だけでは抱えきれない暗さを誰かと共有しようとして、町ができたのだと思う。

眉村ちあきの愛犬レオンが亡くなったらしい。眉村さんは泣いた。それから曲を作った。とびきり明るい曲を作った。今日のライブで始めて披露されたその曲はとても明るくて、そして胸をしめつけるものがある。死の悲しみという想いを否定せずに向き合って、その奥に見える過ごしてきた楽しい時間に思いを馳せているからだと思う。

というかそもそも、ちゃんと悲しんだ人が、それを否定できるはずがないのだ。

ぼくの言いたい、肯定というのはそういうことだ。暗いところから見る明かり。トンネルを抜けると見えた別世界じゃなくて、トンネルからずっとその別世界を見つめていること。急に開けた雪国じゃなく、向こうに目を凝らして先に雪国を見つめていること。雪国に確かに一歩ずつ足を近づけるということ。

物事には色々な様相があるのだから、ひとつの語彙で何かを言い当てることなど到底不可能だ。だから「否定」「肯定」という語彙に縛られる必要もないのだけれど。

アンパンマンは食糧難に陥った戦後に想像されたヒーローだ。アンパンマンは顔をちぎってお腹が空いた子どもに食べさせる。自らの顔をちぎって。その描写に込められた、明るさの奥に見える痛みや悲しみ。それが大事なのだと思う。

中高とぼくは暗かった。楽しくなかった。あの時代にぼくは映画を観たり漫画を読んだり小説を読んだり音楽を聞いたり、色んな世界を知った。それで今がある。あの時代の自分が嫌いだから、戻りたくはない。高校の友だちに誘われても断ってしまう。友だちが嫌なのじゃない。あの頃の自分が内側から引きずりだされるのが嫌なのだ。でもそれを否定する気はない。きっとそれは自分の魅力になっている。嫌いな自分でさえ。

痛みや悲しみから時に目を背けることも大事だろう。自分が生きていくためには。逃げるは恥だが役に立つ。いや、恥じゃない。嫌なことがあったら逃げればいい。それは否定ではない。逃げる対象があるから。否定は対象そのものを見えなくしてしまう。それはきっとこわいことだと思う。

痛みも悲しみも喜びもなかったことになんてできない。忘れてしまっても、それはそこにあった感情。忘れると否定するは真逆の言葉だ。忘れるというのはあたたかな肯定だと思う。

たとえば戦争の記憶。そこには大体こういう言葉が添えられている。「忘れてはいけないこと。」その言葉にぼくは少しの違和感を覚える。いけないのは否定することだ。それをなかったことのように否定することだ。たとえばボケの入ったおじいちゃんが、戦争の記憶を忘れたとする。それはいけないことじゃない。戦争のフラッシュバックに苦しむ元兵士が、それを忘れられたならどんなに生きやすいか。生きやすいなんて言葉を軽々しく使えないから苦しむのだろうが。何度も悲しい出来事が繰り返されるのは忘れているからではない。前に起きた悲しい出来事を否定してなかったことにしているか、悲しい出来事を読み替えて肯定しているからだ。そこにあった悲しい出来事は、ただ悲しい出来事だ。読み替えや解釈じゃない。そこにはただ悲しみがあるのだ。それは否定も肯定もされずにただそこにあるべきだ。それなのにそれは否定され、あるいは肯定され、そして繰り返されているのだと思うのだ。

歴史が動き、悲しい出来事がまた繰り返される時、起こっていることは何か。解釈され、否定され、あるいは肯定され、歴史に意味がつけられた時、大きい動きが生まれているように思う。それは悲しみを忘れているんじゃなくて、悲しみそのものを否定して動いているのだ。だから忘れてはいけないこと、という言葉がそぐわない。否定も肯定もされずに、ただ事実として記録されること、それは二度と解釈されずにただ出来事として残されること。それが必要なのではないか。何か感情をあおるような要素が足されて、人は記憶に残すだろう。忘れてはいけないと脳裏に焼き付けるだろう。その時点でその記憶は歪められているように思う。記憶なんていい加減だ。時を経れば経るほど、洗練され、美化され、ドラマチックに仕立て上げられ、理路整然と整備され、そこにあった生々しい出来事はどんどん色を塗られ、原型をなくしているだろう。だからその生々しさをそのままにしておく一番の方法は忘れることなのだ。体が覚えている生々しさは、多分生々しいままだろう。

後世に語り継ぐことも大事だろう。記録することも大事だろう。でもそれは忘れるためであってほしい。そしてその語り継ぎは個人的な記憶として、その人に語られるべきな気がする。そうして事実よりも語りの中にあるトーンが響けばいい。それを物語として記憶するよりもトーンだけが響いている方がいい気がする。残響はやがて消える。だんだん思い出せなくなっていく。でもそれは思い出せる整然とした記憶よりも、確かにそこにあった感情を刻み付けるような気がするのだ。

アンパンマンで戦争を思い出す人はもう少ないだろう。でもそれは戦争の歴史が抜け落ちたということではない。アンパンマンというキャラクターの中には孤独や悲しみが息づいている。それは戦争とわざわざ名づけられる必要もない。ただその悲しみを感じとる心は戦争を否定するだろうと思う。だから忘れてしまうことは悪ではない。

「時ははやくすぎる 光る星は消える だから君はいくんだ ほほえんで」


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