鉄腕アトム。

肯定することが大事だと思っていた。何か否定的なことがあってもそれを肯定的な形に変えて表現するところまで突きつめてから表現することが大事だと思っていた。基本的にその思いは今でも変わらない。

でも少し不安に思うことがある。

例えば鉄腕アトムや宇宙戦艦ヤマトやは、否定的な悲しく辛く自己嫌悪に陥るような記憶を、希望へと変換したのだと思う。原子力発電が賛成されたのは、原子力をネガティブなイメージからポジティブなイメージへと変換したこと、絶望から希望へと読み替えたことが、日本人の記憶にとって明るく見えたからだと思う。そこに生み出せるエネルギーを人殺しではなく、人命や生活のために使えるということは大きな転換だろう。それを後押ししたのもまた、鉄腕アトムであったと思う。原子力に希望を抱かせるということに寄与している。

それらの漫画がやったことはとてもすばらしいことなのだろう。僕の理想とも程近い。それでも何かを、SFという大きく時代的な跳躍をした地点で、希望に転換することを完全に肯定できない自分がいる。

国内で内省が十分になされないままに、希望が生まれたこと、明るく照らし出されたことが、今の日本の国際感覚のズレを生んでいるように思うのだ。

まっすぐに事実を見つめて、それをずっと見つめて、じっと見つめて、何かを思う。そういう時間が十分になされずに、目を背けたのではないか。目を逸らしたのではないか。あんなにも面白い作品がそのすぐ横を駆け抜けていったなら、人はきっとそちらを見てしまうだろう。そうしてそれを夢中で追いかけるだろう。そうして見過ごされたものが、視界から逃したものが、そのままに忘れられ、いつしか遠くまで来てしまったのではないか。遠くて見えないところにある事実が、遠くて見えない。それでもここまで至った希望を信じるなら、それはきっと肯定できるものであったに違いないと。暑い夏の日に遠くが陽炎でゆがむように、それは捻じ曲がっていったのではないか。

けれどそこにあるものは面白い。面白いものは面白い。それを否定することはできない。その中には屹度たしかにそのことに対するメッセージも含まれているのだろう。でも希望を求めた読者はそれをきっと見逃すだろう。

それでもやっぱりあの痛ましい原爆のイメージを、世界を救うエネルギーに変えて表現し、それが事実誰かを救ったということは、すごいことだと思うのだ。

はっきりと否定するべきことは否定する。反省すべきことは反省する。それはそのままに表現する。書き換えたりはしない。そのことの大事さをまた思う。

たとえばセクハラの苦しさを、相手からの好意だと希望に変換してはいけない。そこにあるのは苦しみだ。怒り悲しむべきだ。

ただ苦しさを苦しさのままに表現したものを面白いとは思わない。共感はするかもしれない。でもそれは否定的なエネルギーだから、肯定的に見つめられるようなことはないだろう。だからそれは面白くはない。面白くないからそれはエンターテイメントにはならない。だからそこから肯定的な部分に至るまで書く。そしたらそれは面白い。でも面白いのは肯定的な部分で、その奥にあった、否定すべきものは見えなくなっている。面白いものは何度見つめても飽きない。見えにくくなった苦しみは見つめてはいられない。

苦しみを見つめる、ということを肯定できるのがいいのかもしれない。

たまにはっと驚くことがある。普段、ヘイトなんて口にしないのに、たぶんそんなこと思ってすらいないのに、ニュースでの韓国のデモとかを見て、あいつらヤバいよね。というような言葉を吐く人を見る。それはその人が考えて発した言葉だろうか。「生まれたところや皮膚や目の色で一体この僕の何がわかると言うのだろう。」という歌詞に感動していただろうあの人が、安易に国籍でくくって、「あいつら」と言う。僕はびっくりしてしまう。ニュースが煽る所為だろうか。その人の言葉でないように思うのは、僕がそう思いたいからというそれだけなのだろうか。悲しみとか怒りではなくて、僕はびっくりしてしまうのだ。

多分、空気というやつだ。空気がそういう空気だから、その人は無意識に発している。そんな言葉が身近な中で囁かれているということにまたびっくりしてしまう。空気が満ちてきているということだからだ。何だか僕は信じられないのだ。

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