肯定はカウンターカルチャーだ!

ちいさな居酒屋で働いている。

仕込み中かけているラジオから流れてきたカネコアヤノの歌声やそのことばに魅了された。

それはその番組にゲストで出てきた時のことで、まだラジオに慣れていないのか少し緊張していた。

二回目のゲストのとき、パーソナリティと交流があったのか、前よりも打ち解けた様子で、自分の話をとつとつと語っていた。

それから昨日三回目のゲスト出演。彼女は自信を持って話している気がした。見えない何かに背中を押されるように、彼女は堂々とそこで話していた。

ぼくはうれしくなった。

それはニューアルバム「燦々」の発売日だった。レコードが先行で発売されたそのアルバムは異例の売れ行きで、店頭にはすぐになくなり、メルカリには高額で転売された。オリコンのアルバムチャートにレコードでランクインしたことに驚いた。

僕がはじめてカネコアヤノに出会った頃から、明らかに彼女は世間に認知されて、評価され、激賞されていた。彼女の歌声に救われる人は増えた。ぼくのまわりにも。もちろんぼくも。

彼女は一度、インディーからメジャーデビューし、またインディーの世界に戻っていた。彼女が彼女らしく表現することを模索していた。その間に彼女の歌や、そこで歌われていることは変化していった。それらもまた振り返るとまた素晴らしい。でも今歌う歌が、そこで歌われていることが、今という時代に合致していた。多くの人が求めていることばのひとつだった。彼女のCDは売れ、レコードは売れ、ライブは即日で売り切れた。彼女の存在そのものが貴重なものとなった。

彼女はそのことに少し戸惑いつつも、自分が認められ、自分が誰かの心の中で息づいていることを感じた。彼女は喜んだ。彼女はうれしかった。

そういう気持ちが声にあふれていた。FM YOKOHAMAのtresenという番組に三度登場した彼女を聞いてきたぼくはそのことにとても感動した。

否定よりも肯定の方が絶対的にいいとは言えない。そうじゃないこともある。でも何かをつくる上での原動力は、肯定の方が燃費がいい。肯定されて前へと進む方が一歩が大きい気がする。

みんな何かを否定したがる。否定こそが論理だと。否定こそが知性だと自分を繕う。でも人にかける言葉に説得力のある肯定を混ぜることの方が余程知性的だ。ほめられ、認められ、すごいと言われる。少なくとも、今、多くの人が求めている声はそれではないか。眉村ちあきもビリーアイリッシュもカネコアヤノもそうして魅力を開花していったような気がする。そしてそれらは、少なくともぼくにとって革新的な音楽で、それは世界を変えるような気すらしているのだ。

政治の話題になると、みな否定を繰り替えす。有史以来、政治は批判される対象なのだろう。きっと。しかし政治家も人間だ。否定ばかりされたらひねくれるだろう。否定されないように、陰に隠れるようになるだろう。汚職とかの原因は案外そういうところにある気がする。

もちろん報道は今批判すべき政策を先に報道すべきだろう。それは緊急事態だからだ。それは自然なことだ。でもいい政策、よかった政策にも目を向けてみてもいい気がする。せっかく、いい事業をしてもほめられなければ、人は不満を感じるだろう。無意識であれ。それが繰り返されると、心は気づかない内に廃れていく。

否定も大事だ。それは繰り返したい。でも肯定することも必要だ。だって誰もが人間なのだから。

ぼくの家の近くの公園はこないだ、整備された。好きな公園がどう変わってしまうのか不安だった。工事が終わるとそこは前と比べ、すごしやすい公園になった。段差はなくなり、ゆるやかな坂が敷かれた。かけまわる子どもや散歩する老人にやさしい地面。公園に置かれるベンチには手すりがない。昨今、時折話題になるホームレス対策に手すりが設置され座りにくくなった椅子、眠ることのできなくなった椅子はそこにはない。ゆるやかに体を落ち着けることのできるベンチが、前よりも少し数を増やして設置された。
一度、鍵を失くして家に帰れなくなった時、そのベンチで仮眠を取った。鳥の鳴き声で目覚めた。心地のいい朝だった。

公園というのがどういう経緯で整備され、どういう経緯で変わっていくのかぼくは知らない。だから誰をほめればいいのかもわからない。でも何かしら公共の機関が行った整備であることは確かだろう。そういう公共の機関には日ごろ不満をぶつけてしまいがちだが、こういう素晴らしい事業もあることを、忘れてはいけない。すばらしいと肯定したい。

そういうことを考えた。

自分が作品をつくるとき、友だちにそれを見せても「いいね」とうすい感想を言われることがしばしばある。うすいなんて言っては失礼だろう。大事な友だちに何も感想を言わないわけにはいかない。でも何も思わなかったとして、傷つけないように発される「いいね」。いや少しは肯定も混ざっているだろう。(そう信じたい。)でもそれは言葉を尽くすほどの肯定ではない。もちろん語彙の問題ではないだろう。本当に言葉を尽くして発される「いいね。」は響きが違うだろう。でも何か具体的なアドバイスであるとか、何か悪いところを指摘してほしいとか思ってしまっていた。その作品にどんなに自信があって、完璧だと思っていてもだ。完璧なものなどない。完璧なものなどつまらない。でも豊かで確かな、心に響く肯定を聞けたのなら、その作品は少し羽ばたくだろう。

実際に羽ばたいたような気がしたこともある。友だちに小説を読んでもらったとき、言葉を尽くして語られる肯定に後押しされてぼくはその小説を本にして出版した。(「カモの飛び方を知ってる?」)
それはぼくのやる気にもつながっていた。その言葉のおかげで今も作品を書けているように思う。必死に言葉を探して、紡がれた肯定の言葉に動かされない人はいない。そういう言葉が世の中にあふれたなら、それは素敵な世界ではないか。否定に神経を費やすよりも、肯定をひろげていく言葉をこそ紡いでいきたい。肯定は「いいね」や「good」のボタンには収まらない。

それが世にあふれたいやになるような言葉の嵐に対する、カウンターカルチャーだ。

早起きして買いに行った「燦々」のレコードに針を落とす。それは前よりも明るく文字通り「燦々」と輝いているようだった。キラキラしていた。ぼくはうれしくなって、少し泣いた。


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