探偵の思惑

彼はある事件に遭遇していた。
彼は孤独な瞑想の内にその事件の解決を試みるだろう。そしてそれは解決されることを予感している。
事件が起こり、その謎を推進力に物語は進む。語られたすべての複線が一つの点に纏まることで美しい完結が起こる。彼の物語(生命活動とルビを振っても良いだろう。)はそういう仕方でしか動かない。何かの謎を解き明かそうとする、物語が物語故に持つしつこいまでに物語的な性格によってしか、彼の時間は進まないのだ。仮に今目の前にある事件に対して、彼が考察を拒否した時、彼の時間は止まるだろう。しかしそれは不可能である。絶対的な生によって、考察を避けることは出来ないのだ。そしてそれを解決してしまうのである。解決をすると何が起こるのか。また事件が起こるのである。彼が生きる為には事件が起こる必要があるのだ。彼の生は犠牲によって成り立っている。
無論、生は犠牲によってしか成り立たない。しかしそれは巧妙に隠されている。特に都市の生活においては顕著だ。そもそも都市とは隠蔽の表現である。犠牲に留まらず、生活や感動や或いはその都市までをも隠蔽するのが都市なのだ。しかし彼の目の前には隠されるべき犠牲が明瞭に示される。犠牲が犠牲らしく存在し得る空間として事件が彼の目の前に起こるのである。だから事件の解決が彼に齎すのはただ苦しみである。また新たな犠牲が目の前に提示されることを指すからだ。彼の生の出発点は犠牲にあり、進行方向もまた犠牲にある。解決に向かう訳ではない。また新たな犠牲に向かって生が進むのである。そして彼をまた苦しめるのは、彼は決して犠牲者にならない事、また執行者にもならない事である。彼は事件と間接的にしか交わることを許されない。明瞭さを保障されているのは唯一、犠牲だけであり、その他は彼が見つけ出さなければならない。
そしてそれは新たなる犠牲の為に。考察という生命活動を割り当てられた生命は当然その事に気付いている。事件を起こすのは執行者でも社会でも都市でもなく自分であると。決して犯人にはならないのはまたその為でもある。彼が生きている為に事件は起きるのである。彼は執行者でも犠牲者でもないと同時に、そのどちらでもあるのだ。だから彼が解決できるのは当然の事でもある。重要なのは彼の生の定義が犠牲の目撃にあると言う事実だ。より正確に表現するならば、彼自身が犠牲なのである。彼が犠牲を存在させ、犠牲を受苦する。そして彼自身が犠牲でもあるのだ。彼は犠牲を目撃し解決し犠牲を起こすという犠牲を被っているのだから。
彼を通して犠牲を表象化し観察する者がいる。表象化とはデフォルメの事であり、詰りは隠蔽の言い換えに他ならない。隠蔽された犠牲を観察することで至福が生まれる。繰り返そう。至福とは隠蔽された犠牲なのだ。彼の最大の苦しみは死すら許されない事である。仮に彼を殺したとしても、それはアりアりとした犠牲として表象される。そこに犠牲が存在した時彼は生きざるを得ない。彼に死は訪れず、或いは死故に、彼は生きる。そしてそれは解決され犠牲を呼ぶのである。私はここに事件を描かない。事件が非在する空間に彼を登場させている。だからそこに解決もない。しかし彼はこの文章に居る。その事は彼を安らかな死へと導くだろうか。答えは否である。犠牲は別の場所で生産されるからだ。生産が停止したとしても、既に存在した犠牲が対象化された時に彼は生きなければならない。人間が至福を求める限り、彼は犠牲として生き続ける。この文章は彼に少しも安心を齎さない。そこに事件は描かれず解決はなくとも、彼が生きている以上それは犠牲であるからだ。ここに明瞭な犠牲が読み解けないとしても(私自身それは見えない)、彼の目の前には明瞭に犠牲が存在している。最初に書かれているではないか。「ある事件に遭遇していた。」と。描かれずとも彼は遭遇しているのである。「犠牲」の代わりに、私は彼に「至福」と言う文字を与えようと思っている。

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