世界の終わり

私は大学を無事に卒業して社会人一年目というやつだ。卒業しないことがそんなに無事じゃないことなのか。そりゃ親からしたら100万円とか払うわけだから、ワイキキにもオーロラ見にも行けなくなるわけで大変なんだろうけど、それも無事じゃないってほどのことじゃない。死んじゃったり、心に傷を負ったりしないのだ。まあそんなことはどうでもいい。私が無事に生きて社会人一年目に突入した事には変わりないのだ。社会人っていうとOLってすぐに変換したがるけど、私はフリーター。日本語で言う自由人だ。私の枕元にはニューヨークからやってきた自由の女神が微笑んでいる。ホントはパリだっけか。パリから来た女神が微笑んでる方がなんだかオシャレな気がするのでそうしておく。でも大学生まで社会人じゃなかったってのも気に入らない。とかいろんな人が思ってるのとおんなじようなこと考えて、それっぽい顔しかけた自分を隠して斜め上から上目遣いで写真を撮ると、私はホントにかわいい。最近ムカついたのは無事大学五年生を迎えた男が私より辛そうにしていることだ。世界の終わりみたいな顔して。仕送りもらって部屋に絵なんか飾っちゃったりして、サークルだなんだで楽しいキャンパスライフだってのに何を辛そうにしてるんだ。別に大学でひとりぼっちでもないし、それなのに、卒業して残業で疲れてるともぴんより辛そうにしてる。そりゃ残業すんのが偉いって言ってんじゃないけど、何かムカツく。多分自分も辛い気がしないと、辛そうにしてる同輩と一緒に居れないんだろうな。それか自分を辛く小さくすることで、世界を輝かせているんだろうな。世界に希望を持とうとしているんだろうな。私にはわかんないや。そんなあことより今私はケーキを食べたいのである。近所のアパートの一室でやってるケーキ屋さんのモンブラン。プリーズプリーズ交換しましょ。私とあなたの何かを。ポケモンは永遠に私のバイブルだ。

毎日を世界の終わりの日だと思って生きるのはロマンチックだ。恐怖の大王がやってこなかった日から、ずっと世界は世界の終わりなんだろうと思ったりする。今目に入ったカーテンの揺れが最後に見たものかもしれないし、耳に入った蚊の羽音が最後に聞こえたものかもしれない。そう思ったらだいたいのものが素敵に見えてくる。終わりを感じるものはみな美しいのだ。美しいとはまた別に映画っぽいなって瞬間もよくある。この話は世界の終わりとは関係ないのだけれど、何もかかってない物干し竿とそこにつけっぱの洗濯ばさみの陰が部屋の床に映ってる感じとかカーテンの揺れとか。後、自分の動きが変にスローに感じられる時があってただ歩くんじゃなくて、右足左足の指と足首と膝とそれから右腕と左腕とうなじと視線と瞬きとが、動いているということをちゃんと感じられるような、私の動きはただの動詞じゃないんだぞっていう瞬間。その時私はスクリーンを支配しているんだなと思う。部屋の中だとそれが多い気がするのは主人公でいれるからかしら。「かしら」という語尾を使うのび太君を女みたいとバカにしていたことを思い出す。

ポケモンの金銀ってゲームの世界に時間があったのがすごかった。昼があって夜があった。一日がちゃんと始まり終わっていた。今でこそ普通かもしれないけど、すごいなと思った。時間をわざとずらして昼に夜を楽しむ背徳感も。でももっとすごいのは何年か経つと時が止まってしまうことだ。そのことに気づくのはずっと後。大人になって家を出ることになった子どもが自分の部屋を掃除すると、出てきたカセット。懐かしく思って電源を入れる時。時の止まったワカバタウンにはもう夜がやってこないなんて。はじめから時が止まっているゲームはいっぱいある。ずっと時計が進むゲームもある。でも時がいつの間にか止まってしまって、住人たちはそのことに気づいていないような、そんなおとぎ話がこの小さな正方形の画面の中にあるなんて。私は夜の訪れた部屋でうっとりしたのだ。

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