濃霧から

夜中の三時という時間には何か「意味」と呼ばれるべきものがある筈だ。私は徐に辞書をひらいた。「夜中」の項を見つける。人差し指でそこからゆっくりとひだりに文字を辿る。「夜中の三時」という項がないことに唖然とする。
先程鳴った鐘の音がまだ脳裏にこびりついていて、それは「こびりつく」という語感の割りに心地良い。布団の中から携帯を手取ると、私は路線情報をひらいた。運行情報を見ると、そこにはいつも乗る電車が載っていて、「濃霧の影響で一部の列車に遅れが出ています。」と書かれている。そのことに幻の空気を思わざるを得ない。動く電車も無い時分にそれも「一部の」列車が「遅れている」。その「一部」ということばは列車群の中の一列を指すのか、列車の中の一車両を指すのか。何れにしろどこかの五号車が架空の中に「遅れている。」私は三本の指を中心に寄せ、シャープペンシルを握った。濃霧の中の赤色(せきしょく)ランプ、何の為にそれを光る。獣の吐いた血、薔薇の香、私の肺だろうか、いずれにしろ呼吸器を、その赤色を光るのか。濃霧の中の列車のでんきは白く、それは濃霧をより凶暴にしてみせる。あの奥に隠す赤色が濃霧を呼吸し、迷子という美しさを消していく。彷徨い、それが「夜中の三時」の「意味」である筈で、濃霧がそれを隠した。そう思い、辞書をひらいても「夜中の三時」の文字は無い。「濃霧」すらそこにはなくなっていた。

時折、部屋の中空に銀幕が浮かぶ。映された「あなた」はどこの国の人かもわからないが、この部屋に馴染んでいる。その画面は私の憧憬と近しいものを映す。しかし、その色や言葉は私の知らないものだ。

電車の中の記憶はない。私はすぐに眠ってしまう。はじまりとおわりだけがあり、その間はわからない。私は消えてしまっているのかもしれない。電車が消えてしまっているのかもしれない。私の乗り込んだ五号車は夜の闇になり、私もおなじ。そして目的地へ着く。移動こそが真実であるというのに、電車はいけない乗り物である。
眠っている間、電車は違う時間を走る。それは私よりも過去である。それを照らす。ライトが。進行する。原始から土を巡って、水を介して、照らされる。照らされているのは私だ。瞼を開き電車を降りる。

硝子という字或いは硝子瓶という字は思いの外ザラザラとしている。石と濁音が触感を呼び寄せる。硝子と聞いて一枚の硝子板や加工された瓶を想像するか。粉々に砕け散った破片を想像しないか。「子」が欠片を寄せる。そうして光に近付く。硝子という字には言葉には滑らかな面は忘却され、破片の予兆が浮かぶ。硝子は名指された時点で綺羅綺羅と割れていくのである。

降りると人の群れがあった。それらの眼窩には昆虫の瞳が収められている。密やかに拓かれた瞼から世界を見守っている。昆虫の凝視はあらゆる事態を見詰めているだろう。昆虫は観察している。それにより、私の動作は私によって意識される。それは儀式になる。

弥勒菩薩が幾数も視界を埋め尽くすイメージがある。それは何かの終了である。始点では決してない。終始は繋がらず、ただ終了だけが粛然と芽生える。そういった視界だ。

草の下に死を収める。列が地(つち)を踏む。世界人口の行列が地を踏む。それらに感化されるように地下は宇宙と繋がる。踏む行為と通う行為が力の逆説により、その為に結ばれた。日常の動作が意識になりそれが概念にならず儀式になる。世界人口の動作が足元に宇宙を結ぶ。人口という言葉に穿たれたその空間に「人」は収まらない。それが「人」を失う時、収まり、空間は黒く塗りつぶされていく。黒く塗りつぶされた囲いが、組み合わされまた文字が、絵画が、画面が構成されていく。有り得なかった視界が其処には生まれ、段々とそれは殖えていくのである。

穿て我が心よ、此処ろと言えば穿たれるか

「左を見てみろ、そこには左があるだろう。」この台詞が私のメモ帳には記されていた。それは私の筆跡ではない。それを見つけて以来私は左を見ていない。私の世界から左は消失した。

何世紀、そこに凝乎(じっ)と座っていただろう。自分の部屋の水槽に餌をやらなければと思い立つ。急いで部屋に戻らねばならない。私は走った。全身が速度になる瞬間がある。その瞬間には世界は残像となり、私は熱になるのだ。瞬間を捕らまえようと。三度目に捕らまえる。
部屋に帰ると水槽が凝乎と私を待っている。私は謝ると、魚影を水槽にあげた。

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