親戚との年越し

年末年始の休みを殆ど親戚や両親と過ごした。それは一般的には「普通」とされることなのかもしれないけれど、ぼくにとっては異常なことだった。ぼくは親戚と言うのがとても苦手だ。子どもの頃の親戚に対する印象は、「血が繋がっているというそれだけの理由で親しげにしてくる知らない人」だ。その感覚は今でも変わらず、奇妙だなと思っている。

親戚の集まりの中で、何だかいつも浮いている感じがする人がいた。それが叔母だ。うちの親はその叔母とあまり親しくしない。なんだかよそよそしいし、陰口みたいなものも耳にしたことがある。子ども心にそれはいやな感じだった。そんな叔母には少しの親しみを覚えていた。かと言って親戚に人見知りするぼくは、叔母に話しかけることもなかったのだけれど

大晦日と正月を叔父、叔母の家で過ごした。その叔母に呼ばれたのだ。少しこわかったけれど、いとこの今年三歳になる娘さんがめっぽうかわいいのでその子に会えるというだけでも、十分な理由になった。その子と関わるときも、ぼくは子どもの頃こわかったような親戚でないようにしたいと思っている。それが出来ているかはわからない。ただかわいい子どもと出会って接するように、それは血筋とは関係なくただその子自身と親しくしたいから接しているという当たり前で。
この態度は、結構役に立つという発見があった。一度他人として出会い直すのだ。
物心ついたときには既に親しげに接してくる知らない人たち。そういう親戚との距離感がわからなかったけれど、一度他人として接してみて、心を開ける友人や先輩になるか、ただの知り合いになるかと、普通に会社や学校などで人と人とが知り合う順番を経て、接してみることにしたのだ。一度他人と思ってしまえば、その距離の分自然と会話することが出来る。それは居酒屋でたまたま隣になった人に話しかけられたときに、心を開くわけじゃないけれど、無下にもしないようなそういう態度。それから親しくなったなら、もう一軒行ってもいい。そういう仕方で親戚と接しなおしてみたら、案外仲良く出来そうな気がした。

親戚が苦手な人、あるいはそういう集まりが苦手な人というのは結構いると思う。無理に親しくするのではなく、一度他人として出会い直すという方法は結構使えると思う。グイグイと図々しくパーソナルを犯してくるようなやつも、一度他人としてみたら、冷めた目で見れるかもしれない。

友だちも親戚が苦手だったと言っていた。やたらフレンドリーに接してくるおじさんがいて、急に迫ってきて膝の上に乗せられたりしていたらしい。「すごく恥ずかしくて嫌だった」と彼は話す。ぼくとは違くて気を使って楽しそうに振舞える彼は、それを自分で客観的に見て恥ずかしくなるのだ。
得意であることと苦手であることは真逆ではない。

いとこの娘がかわいいという話をすると、じゃあ自分の子どもが生まれたらもっとかわいいだろうねと言われることがある。何か違和感があった。自分の子どもだろうと、いとこの子どもだろうと、他人の子どもだろうと、そこに見つけるかわいさはその子自身のかわいさで、そこに含まれる血の濃さは関係ない。その子自身が生きている生に対してそれは失礼だと思う。

死ぬ前のおばあちゃんは俺のことを覚えていなかった。それでも親しげに俺を見た。それは血のつながりという家計図に記された証明とは別の文脈で、親しさを手に入れていたのだと思う。

父親は昔、「友だちはいつか裏切る。絶対に裏切らないのは血の繋がった家族だけだ」といった。その言葉はぼくが親しくしている友人に失礼だし、血をあまりに信じすぎていると思った。この言葉を言わせるような裏切りが、父の人生にあったのかもしれない。それはとても悲しいことだし、その時家族に救われたのなら逃げ場があってよかったと思う。あるいはぼくが両親に置く距離感に対する寂しさから出た、極端な発言であったのかもしれない。それでもそれを絶対として人に語ることは、人を傷つけ得ることに気づいてほしかった。

親戚の家で過ごす正月。遅めに起きると、退屈な駅伝が流れるテレビの前のコタツに入る。「モチ何個入れる?」と聞かれ「三個」と答える。お雑煮を食べ終わったらまた眠くなってきてそのままコタツで一眠り。起きあがるとビールが注がれ、そのまま酒の席。近所に住んでいるいとこ家族が遊びに来て、ぼくは娘にお年玉を渡す。それから一緒にカーズのおもちゃで遊ぶ。ダラダラと無為に時間が過ぎていく。正月のイデアかこれは!というような正月をはじめて体験した僕は案外に楽しく親戚との年越しを楽しんだのだった。
ぼくが洗い物をできたのもよかった。台所は女の場所というような空気がないことに非常な居心地のよさを感じた。

自宅に着くと、ぼくは眼鏡を親戚の家に忘れていたことに気づいた。しばらくして眼鏡が家に届いた。日本酒の四合瓶と共に。そこには手紙が添えられていて、そこには感謝の文字が綴られていた。ふるえるような筆跡で書かれたシンプルな言葉はとても綺麗だった。

日本酒の感想をメールした。(福無量(純米)、とても食事に合ういいお酒。)帰ってきた返信にはまた感謝が書かれていて、それから
「そう言ってくれるのは、~~(俺の名前)だけ ~~は優しい。」
と書いてあった。なんだか切なくなった。

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