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為リタイ者


「A型っぽくないよね〜」



皆は、曰う。

職場などで盛り上がるネタが必要な場面において人気の血液型性格判断。
この謎の占いもどきが人気を博しているのもガラパゴスニッポンだけなのだが、このハイテク時代においてなおも大人気らしい。

そのなぞの判定によると、A型人間は、真面目で几帳面 · 責任感が強く心配性 · 人の評価を気にする · 協調性がある、 ナドナド、とな。

仕事に対して小銭を稼ぐためとまるで向上心がない、週に3日しか働く気がない、雪が降ったと言って休む、貯金をしない、穴の空いた小汚い服と靴を纏っている、脱いだ靴を揃えない、ワクチンを拒否する、ニュースを見ない、集まりに参加しない、ポウくんの話しかしない、ナドナド。。。
ほう、どうもA型人間らしかぬ行動が目立つようじゃないか。

たった4種類の血液型で、その者の何がわかるというのだろう。
じゃあどうしてそんなに人気なのか?
たった4種類に分けることで差別化を図りよりたくさんの同種(相性のいい者)を獲得したいのかもしれない、相手を自分で判断する自信がないのかもしれない。

人間様が得意とするこの手のラベリングがぼくは苦手だ。胡散臭いんだもの。その個体を知るのに大雑把すぎやしないか、と思うんだ。そんな偏見がなければものすごい仲良しになれるやもしれないのだ。
男、女、大人、子供、日本人、外人、子羊、狼。。。どれもただの偏見、ただのイメージ(妄想)で判断してないだろうか。
実際、「無知」だと思われている子供は大人の知らないことをたくさん知っているし、「獰猛」だと思われるオオカミが心が広く思いやりがあったりする。
ラベリングは「そういうものだ」と一般化する、「私」にしろ「おまえ」にしろ、その者の「個」を無視し、枠に収め矮小化し歪める。

ラベリングの恐ろしさは、対象を観察する前にカンタンに結論付け、その者自体を観察しないところだ。
現に皆が「あんたA型っぽくないね」「あんたワガママだものね」というように、ぼくをある程度観察した者であれば後から貼られたそのラベルを疑っているのは明らかだ。ぼくの血液型を知る前に、ぼくを観察していた結果なのだ。
それが反対ならばどうだ?
「A型です、よろしくお願いします」と名乗る新人のぼくを周りは、「信用できそうだな」とでも本気で思うのか。

個の多様性を抹殺するラベリング、自分でさえ「私って〇〇だから。。。」と洗脳されるラベリング、実際そのラベルに書いてあるのはなんだろうか?

生き物は変化する。
「人は変わらない」とぼくは言った、それはその者のパーソナリティーを作る「習慣」を変えるのが難しい、ということであって、変化は常にある。
環境が変化すれば、気分も変化する、気分が変化すれば、他者に対する態度も変化する、「私」とは常に流動的なものであって、枠にキチンと収まっているわけじゃない。
ぼくらの身体もこの地球のようにたくさんの生き物が生まれたり死んだりして作られている。細胞が変わってゆくのに、脳は全く変わらないとはおよそ信じられない。


ぼくがこう言ったことを学んだのもポウくん先生の授業のおかげだ。
彼は変化した。
ぼくも変化した。
ぼくらは出会い、互いに影響しあった。
ゆえにぼくは、彼と会う前のぼくとは何かが大きく変わってしまった。


その「何か」がなんなのか、わからない。
ラベリングできないものなんだ、それを「心」と呼ぶんだろうか。
ただ、ぼくは何かを知ったろう、彼に会う前には考えも及ばなかった何かがわかったのだ、それは言葉にするのが難しいがゆえ、覚えておくのも難しい儚い何かだ。
けれど、その儚い何かに今までの価値観は粉々に吹き飛ばされてしまった、そう、今となっては、以前重要だったものがどうでもいいものになってしまったんだね。

白いシャツに、ピカピカの靴、洒落た街で、うまい食べ物、スタバのコーヒー。
そして、芸術。
絵画やバレエが好きだった。
ピアノとクラシック音楽が好きだった。
オフィスで働き、キチンとするを好む、それがぼく、そう思ってた。

けれどそれらすべて、今となっては「ナクテモイイモノ」と為ってしまった。
ぼくに「ナクテハナラナイモノ」はまったく変わってしまったのだ。

「己が変わった」

としか言いようがない。
為り(変わり)たくて為ったわけじゃない、「為ってしまった」のだ。

けれど、ぼくは「為ってしまった」今のぼくが好きだ。
このぼくは、彼があのどでかい前足でこねなおしてくれたものだから。
彼がぼくの世界に登場しなければ、今のぼくには為らなかったのだ。
ぼくの「大事なもの」は、変わったのだ。


彼は「なんでもないもの」を愛しているようだった。
穏やかな風、草の匂い、鳥の声、ひんやりした木陰。
そこには楽器も舞台も映える衣装も必要なかった。
なんの「道具」もいらないのだ。
なんの「イイネ!」もいらないのだ。

人間様のように、「いつもと違うもっと楽しいこと」を求めているようにも見えなかった。ぼくは人間様だから、彼に「もっと楽しいこと」を与える努力もした。いろんなところへ連れてゆき、いろんなイヌに挨拶させようとした。
けれど、彼はどう思ったろう。
彼は自然が与えるささやかな変化の方が好きなように見えた。

彼は毎日そこにある、「つまらない」日常を愛しているように見えた。
「他者にどう思われるか」なんてどうでもいいのだ。
そう、人間様にはつまらない、映えないものが彼にとっては大事なもののようだった。
彼には「お気に入り」があって、それらもいつも同じで「彼の」大事なものだった。
お気に入りの寝場所、お気に入りのおもちゃ、お気に入りの友達、お気に入りの散歩道、お気に入りの眺め。
すべて彼だけのイイネ!だった、他者の承認などどうでもいいのだ。

ぼくは彼のイイネ!にイイネ!した。
ぼくらふたりだけが良ければそれでいいのだ、ぼくらは仲良しギャングだった。
ぼくらはよく、ふたりで「愉しい」って感じたと思う。
いつもの散歩道を、いつものように走ったり、プロレスしたりして戯れあったとき、「ぼくら」は愉しかった、彼が笑ったからだ。
「戯れあう」のはひとりじゃできない。
彼はつまらない日常を「仲間と共に」在るのを好んだように思う。

ぼくら社会性の動物は、他者の影響を強く受ける。
群れなければ生きてゆけない、ゆえに群れ色に染まる。
いつも一緒にいたい者とはおんなじ色でいたいもんだ。
だから、一緒にいたい者が、なりたい自分なのだ。
そう、ぼくがもはやA型っぽくないのは、一緒にいたい者が「A型人間」ではないからなんだ。

長年培ってきたヒトの性格という樹の根っこは残念ながら変わらない。
今でもぼくはグールドに感動するし、バレエを美しいと感じる。
ただ、あの頃生やしてた葉はすべて落っこちちゃって、新しい葉をつけたってわけだ。

ぼくは、彼に、成りたかった。
彼には成れなかったけれど、彼に近づくことはできるだろう。


もっと彼に近づきたい。
今もまだ、彼のように在りたいと願う。
それが今のぼくの「なりたいぼく」だ。