幻のパンの耳にスポットライトを


昨年のオルタナティブ文化祭の際にさらみさんが作ってくれた作品の部分を掲載させていただきます。




「幻のパンの耳にスポットライトを」

「生きづらさ」という言葉をあちこちで聞く。
障害や病気、貧困、性的マイノリティー、不登校…

多数派ではない人たちが、多数派の占める社会で生きていく上でのしんどさを表した言葉だと思う。
「生きづらさ」や類似した言葉をテーマにしたイベントやセミナー、講演会も数多く開催されている。自分も何度か参加したことがある。
ただ、そこで出てくる言葉やエピソードに違和を感じることがままある。
本人の話を聞くとき。
自分たちが置かれている状況、受けた虚しさ、苛立ち、悲しさ、怒りなどが生々しく、時に涙を交えて話される。
「こういった経験をした自分を認めてくれる社会になってほしい」「自分と同じ思いをする人を一人でも減らしたい」「この経験が今の自分をつくった」という展望やサクセス。
 それを聞いた他の当事者たちが「わかるわかる」「自分の時はこうだったよ」と話が繋がるときもある。
「話をしたり聞いたりしてとても楽になった」という感想。
「あなたは一人じゃない」「つながっていこう」という言葉。

 本人だけでなく経験者の話を聞いて、楽になれる人はいる。
 同じ思いをしている人は自分だけじゃないんだ、と。
 ”支援者”からは「こういう人たちを少しでも減らしたい」「自分たちがしてきたことを改めて考えさせられる機会になった」などが並ぶ。

 でも、イベントが終わったら元の「生きづらい社会」へと帰っていかなければいけない。


自分の状態に名前をつけることは、自分はこういう人間なんだ、と決めること。
 それによって今までわからなかった自分の状態やモヤモヤが、突然ガチッとハマってスッキリする。
 同時に、モヤモヤの、型にハマっていなかった言葉が削ぎ落とされる。
 普通の社会という枠組みから外れて”しまっている”が故に、新しい自分の枠組みを見つけて、つくって、決めて、自分を自分の枠組みにギューッとする。
 内容が違うだけ。枠という役割としての違いはあまりないのに。

 ただ、何者でもない感覚はやはり不安を伴う。
 型やパターンがわかるとその分野が固まってくる。
 研究してる人もいるだろうし、交流して知ってる情報をもらったりあげたりできる。
 時には他の市町村、都道府県、他の国の状況などを「知識」として得られる。
「なんでうちの市はそうじゃないんだ!」「日本はなんでこんなに遅れてるんだ!」という怒りに変わる原動力にもなる。
やがて社会運動につながり、実際に社会の仕組みが変わることもある。(実際はここまでシンプルな流れではないと思うけれど)

生きづらさの共有から、つながり。知識の共有からの社会運動という一連に関して否定を決して否定はしないし、むしろ必要なことだ。

ただ、もったいないとも思う。
「生きづらさ」という手垢のついた言葉を自分の軸にすること。自分を型に入れてしまった時に切り落とされる「モヤモヤのパンの耳」の部分。


型があるからこそ、いろいろなところに説明もしやすいし、仲間も集めやすい。
ただ、結局のところ「多数派」の人たちが、生きやすさを確保している手法と同じなのだと思う。

「生きづらさ」を「生きやすさ」に変えてしまう。


いわゆる多数派と呼ばれる人たちも、生きづらさを感じる部分はあるはずだ。

「生きづらさ」は少数派のものではない。
 少数派=生きづらいマイノリティー ではない。
 多数派であれ少数派であれ、生きづらさを実感しながら、互いを気にかけながら、モヤモヤをモヤモヤのまま受け入れながら生活をしていく。

 自分の生きづらさを生きがいにしてしまったら。自分の骨子、軸、アイデンティティにしてしまったら。”生きやすくなってしまったら”。一体、どうするんだろう。

今をからこそ陥ってしまっている罠や穴はないだろうか。
優しい人たちが下三日月の笑顔で口をそろえる、「生きづらさ」という「個性」がなくなってしまったら、どこによりどころを求めるのか。


僕”たち”は―――自分自身に「生きづらさ」をよりどころにするのをやめた。
 自分をある型に期間限定であてはめることはある。その時は、今自分がどんな型にはまっているのかを意識する。
 感情なのか、所属なのか、考え方なのか、影響されたものなのか。できる限り意識する。意識できなくても、意識できていないということを意識する。


そう思えるまで、長い年月がかかった。
 さまよって、よりかかって、多くの人を傷つけてしまった。
 代償は大きい。
 もう戻らないものもたくさんある。
 無視はできなかった。

 白い生地がほんのり残ったパンの耳はどうあったってそこにあった。
 生きづらさの枠のなかにある白いものしかみられず。

 生きづらさの枠を除いた時。
 遠くの方にナニカが見えた気がした。
 だけど、それは名前のない別の枠に阻まれた。

 そのナニカを見たいからまた枠を外すために苦しむ。
 あの一瞬を見た時の、ふっとした快感を知ってしまったから。

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