「 人 の 優 し さ が 怖 い 」

 俺には他の人にはなかなか理解されない切実な悩みがある。
 それは「人の優しさに触れると心が苦しくなってしまう」ということだ。「人の優しさが怖い」と感じるようになったのは、幼少期の体験が大きく関 係している。
俺は、小学1年から高校卒業までの12年間いじめられっ子だった。
そのうちの約7年間は、「汚い」と罵られ、避けられてきた。
 小学校高学年から中学卒業までグレていた俺を教師も見捨て、いじめに加 担していた。そんな日々を送っていた中学3年生のある日、
荒れていた自分に優しい笑顔で話しかけてくれた先生に出逢った 。
 正 直 か な り 戸 惑 った の を 今 で も 覚 え て い る 。
最初は、いじめられているということを先生には言わなかった。話せると思 わなかったから 。
次第にいろいろと話しようになり、「汚い」といじめられてることを伝えて もなお、変わらずに穏やかな表情で話し相手になってくれたり、頭をポンポンしてくれた。
 優しさに戸惑い始めたのは、中学卒業間近の頃だったと思う。そして中学を卒業し、「またいじめられるんだろうな」という不安とともに高校に入学した。し かし、その不安はいい意味で俺の予想を裏切ってくれた。優しいクラスメイト、優しい先輩がた くさんいた。他の人からすれば、それは幸せな環境なのかもしれない。だが、俺にとっては、恐 怖と罪悪感の始まりだった。すごく穏やかで、話す時の距離が近い男の先輩がいた。どうやら俺 は、その先輩に気に入られたらしく、ふざけてよく追いかけ回されていた。当時のことを振り返 ると、先輩のことが嫌いで逃げ回っていたのでは決してなく、「なんで俺に平気で近づけるん だ?」という疑問ばかりで、困惑していた。それと同時に、必要以上に怖がり、逃げてしまうこ とで、先輩を傷付けてしまっているんじゃないか?という罪悪感があった。専門学校に入学す ると、今まで以上にたくさんの心優しい人、先生方に出逢った。大人になってもなお、俺の苦し みは続いた。平気で肩組んでくれる人、平気で俺を触れる人...それによって悩み苦しんでいた訳 だけど、もちろんその人たちは何も悪くない



人の優しさが怖い」という深刻な悩みを本当にたくさん の方に相談し、様々なアドバイスを頂いた。 その時は、「ああ、そうだよな... 」と納得し、「明日からは素 直に優しさを受け入れよう!」と思うのだが、 自分の思考はなかなか変わらない。優しくされて、 困惑して、パニックになって、場合によっては過呼吸まで起 こして震えが止まらなくなることがある。 「明日こそ... 明日こそ... 」と受け入れたい気持ちはあるの だが、俺が待ち望む「明日」はまだ来ていない。 優しさによって、パニックを起こすたび、優しくしてくれる 人に対しても、アドバイスをくれる人に対しても、 本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。 俺が優しくされて困惑してしまう根底には、「俺は、いじめ られることの方が当たり前で、優しくされるのは普通じゃ ない」という考えがある。 「認知の歪み」というやつらしい。 そんなことはあるはずないし、あってはならない。 そう、頭では分かっているつもりだ。 だが、時間をかけて歪められてしまった思考は、簡単に覆 すことは難しい。 今まで23年間生きてきたけど、人生の半分以上はいじめ られていたわけで、人の優しさに触れている時間よりも、と てつもなく長く感じている。 もちろん、12年の間に、人の優しさに全く触れてこなかっ たのか?と聞かれれば、決してそんなことはない。 たしかに、いじめられるのはめちゃくちゃ辛かった、 そんな中でも、俺の味方になってくれていた人はいたはずだ。 それは分かっている、いじめられている」ことに精一杯で、 自分のことしか見えていなかったし、いじめ体験の方が、 圧倒的に強烈に印象に残ってしまっている。 これまで、つらつらと想いの丈を書き連ねてきたけど、 結局何が言いたいのか。 優しくしてくれる人を傷つけないためにも、優しくされて 自分が苦しくならないためにも、 「明日こそ... 明日こそは... 」人の優しさを素直に受け入れ られるようになりたい。 こんなことを言っているが、その「明日」は、まだ来ないかも しれない。 「明日」も「なにも変われない今日」になってしまうのだろう。 それでも、いつの日か「優しさを受け止められる明日」 そんな日が来ることを信じている。最後に、まとまりのない拙い文章で、読みにくい部分も多々あったと思いますが、 最後までお読みいただき、 ありがとうございました。 

陽登

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