#murmur

今日は自分の感情の起伏が激しい一日だった。自分の中でどうしたいのかわからなかった。自分の感情が怒りなのか悲しみなのか、それとも拒絶なのか恐怖なのか。自分の感情がわからないというのは、困ったものでつくづく自分自身への理解の低さを痛感する。

どうしてこんな感情を抱く羽目になったのだろうか。

私は自分の意見を言うのが苦手だ。幼少期に両親からかなり叱られてきたからだろうか、自分の気持ちを推測されて周囲からこの子は喋らない子だと認識されていたのを知っていたからだろうか。心の中でわだかまりがあるのはこの年になっても消えないのである。おかしいと思う。自分でもそう思う。「何か言いなよ」と問われると、言葉に詰まってしまうのだ。自分でもどうしてなのか分からない。自分の意志・意見は喉元まで出ている。でも、声に出せない。恐怖で口を閉ざしてしまう。この言葉を言ったらどうなるんだろう、怖いという思いが先行する。自分の意志で他人を曲げてしまうことができない。心にも口にもカギがかかったみたいに、閉ざしてしまう。そして涙ぐむ。

心のどこかで、沈黙や黙秘の苦しさに耐えればこの地獄から解放されるという気持ちがあるからなのだろうか。言葉を発するのが辛くなる。こんなことを書き始めるときりがないが。どうしても克服できない自分がいるのも確かだ。

突然だが、私は納豆が苦手である。においや食感に対してどうしても抵抗してしまう。納豆を食べない生活のまま7年が過ぎた。今も食べることができずにいる。克服する気もないのが現状である。要は食わず嫌いだ。

相手に対抗しないのも、この食わず嫌いのようなところと似ていると私は思う。自分の気持ちが言えないのも、トレーニングができていないどころか、克服しようとしていないからなのではのだろうか。人間は楽な方に生きようとする生き物である。だからこそ克服することを苦手としたり、その過程をめんどくさがったりする。そうやって何もしないまま過ごすうちにそれが当たり前となって、もう克服するのも面倒になって現状をずるずる引きずるのではなかろうか。

どこかでけりをつけなければならない。

茨木のり子は「人のせいにはするな、友人のせいにはするな、近親のせいにはするな、暮らしのせいにはするな、時代のせいにはするな」とメッセージを投げかけ読者を叱責している。自分の心によく響く。

結局言葉を飲んでしまうのも他人のせいなのではなく、自分の心の弱さ、黙っていればどうにかなるという安易な考えの現れなのである。この状況を打破するのも自分次第だと思っている。それを解決する場として、今の勤め先を利用すればよいのだと思う。

私は現在、放課後倶楽部の地域指導員として働かせていただいている。子どもたちが何か過ちを犯した時には、どうして悪かったのか理論立てて説明しなければならないのである。叱ることを恐れるのではなく、どうしたら子供に理解してもらえるのかを最優先に考え自分の力で、自分の言葉で、説明する必要がある。私にとっては絶好のチャンスである。このチャンスを逃していつ弱い心を克服するのだろうか。本当に今しかない。自分で自分を変えたい。


強い自分になりたい。そんな理想はあっても、今はまだ中身は未熟で弱いままだ。


悔しい。

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