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言葉の通じぬ自然

今朝、旧Twitterを見ていたら、

「人間の言葉が一応通じる山」と「人格獲得させられる前の世界」
引用「道民の人@『鄙び旅鄙び宿』」さん

という文章を見つけた。

そうそう!それそれそれー!
となった。

「自然」という言葉でざっくりまとめているけれど、色んなグラデーションの「自然」がある。

以前、知り合いが「連休は自然を満喫した」と言うので、どこに行ったのかを聞いたら観光地で猿が温泉に入っているのを見たのだと話してくれた。知り合いにとってはそれは「自然」なのだ。

人間は人間の世界で生き過ぎると、ほんの一滴の「自然」の要素でも「自然」を感じるものなのだなとその時思った。

現在の地球上の多くの場所で、人間の居場所と「自然」はくっきりと分離している。

しかし、もっと「自然」の力が強かった頃、人間の生活は「自然」の一部だったはず。

人間が山の神に祈り、野生動物とうまく付き合い、山の恵みをいただくような暮らしが長くあった山には「人間の言葉が一応通じる山」の雰囲気がある。祈りを通じて意思疎通が取れそうな感じ。

「自然」というのは、人間と付き合うことで人間を知り、「自然」もまた人間的な人格を得るのかもしれない。

だが、先日久しぶりに「そうではないところ」を感じた。

沖縄県の北部ヤンバル。
第二次大戦後、かなり伐採されたりと人為的な手が入ったとのことだが、それでもかなり「人間の手垢がついていない山」の雰囲気があった。

わたしは若い頃、小笠原諸島に数年間暮らして生き物の調査に参加したりしていたので、島からかなり離れた外洋にボートで出て、海の中に身一つで浮かぶなどの経験をしたことがある。
小笠原自体が外洋にポツンとある島なのだが、島から離れるとさらに周りには海しかなく、人間が存在しない世界が広がる。そこは人間の祈りなども届いたことの無い場所。

人間から遠く離れすぎた場所では「自然」の側が人間を知らない。見たこともない。

そう言う場所では人間の善悪やルール、お気持ちなんかは全く通じない雰囲気が漂う。

「人格獲得させられる前の世界」。人間の思う、山の神が海の神が生まれる前の、もっと得体の知れない「神のようなものの雰囲気」。

畏怖の念というのは「持つべきもの」ではなく、「持ってしまうもの」なのだと思う。

怖い。
怖くて怖くて、震えるくらいなのに、一度知ると取り憑かれてしまう。あの雰囲気。

宇宙飛行士やエベレストに登る人は、もっと強烈に感じているではと思う。

ヤンバルの森と隣接する集落にある滝などは祈りの場になっている。そこは、人間を知っている森の雰囲気。

でも、その滝の流れてくる先の先の方に、人間の気配が無い。人間を知らない「自然」が向こう側にある、そういう圧を久しぶりに感じた。

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