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“しゃべる”こと

最近、他人としゃべることが苦痛だ。それは、明らかに自分に非があることによって生まれた問題なので、私がどうにかする以外方法はないのだが、どうすることもできないまま長い時間が過ぎてしまった。

人との会話が嫌いかというと決して違う。むしろ好きだ。

ただ、空気を読んで、ノリとタイミングを合わせて、会話するというのがどうにも嫌いなのだ。

自分の話したい時に話したいことを話す。そんな当たり前だけど、許されない行為が、私自身できなくなったのは、いつからだったろう。

この、“話せない”傾向は、年齢が上がるごとに強くなってきていると感じる。

それは周りの人間全てが、それぞれに感情を持っていて、誰一人として同じ存在はいないという、これまた当たり前なことを、歳を重ねるごとに強く実感しているからなのかもしれない。

自分は前々から、人間にはあまり大きな違いは無いという考え方を持っていた。それは、「自分がされて嫌なことは人にもしてはいけません」とか、「優しくされたら、それを周りにも返しましょう」とか、そういう言葉に惑わされてしまっていたからで。

この言葉のように、他人と自分の思いが一致するということは、ごくごく限られた瞬間だけなんだと気づいたのは、意外と最近だ。

彼は、彼女は、私とは違う。だから、話したいことも違えば聞きたいことも違う。それを察して、お互いに悩みながら会話は続く。

なら、これは誰が話したいことなんだ?

誰が望んでこの会話は成り立っているんだ?

“しゃべる”ことを求めているのは、誰だ?

#エッセイ #思ったことを綴る

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