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お母さん彼氏

 大学生のとき付き合っていた彼氏は、私のお母さんのような存在だった。
大学1年から4年まで丸4年付き合って、私が上京したことで遠距離になり別れた。
別れは私の方から切り出した。
彼は今地元で奥さんと楽しく過ごしているようだ。
私はあの4年間は彼に愛され、支えられ、育てられた。
その時のことを書こうと思う。
けっこうセンシティブだし、恋愛のことが苦手な人は読まない方がいいと思うけど、私の気持ちの整理で書くことにした。

 私とRさんは軽音楽サークルで出会った。当時18歳だった私は怖いもの知らずで、先輩にもガンガン話しかけては遊びに連れて行ってもらったり、いろんな音楽を教えてもらったりしていた。私はオレンジ色の髪の毛でバンドTシャツ、ダメージジーンズにサンダルでボロボロの原付に乗っていた。めちゃくちゃ小汚い女子大生である。
ViViとかmoreとかnonnoを読むような可愛い18歳ではなかった。Zipper、cutie、fruitsを読んでいた。なんならGiGSを買っていた。
でもなぜかめちゃくちゃモテた。私は人との距離感がバグってる人間なので、当時も恋愛経験の少ない男子の先輩に対して、「ドラム上手いっすね!かっこいいっす!」とか「好きな音楽教えてください!」とか「一緒にドライブしましょう!」と軽々しく言いまくっていた。気づいたらバイトまで毎回送ってくれる先輩、ご飯を奢ってくれる先輩など1年生にして4年生をアッシーメッシーのような使い方をしていた。それに自分で気づいていないからタチが悪いのである。
一度、一つ上の先輩から「お前は男を漁りにサークルに来てるのか。」と、ファミレスに呼び出されて説教されたが、「まじで何のことかわかんないっす。」と言って、梅昆布茶を3杯飲んだところで逃げた。でもなんとなく、「私はサークルの雰囲気を乱しているのだな。」と悲しくなっていた。当時はかなり楽観的だったので、そう思っても対して行動は変わらなかったのだけれど。

 Rさんは私が1年のときの4年生だったが、一浪していて歳は4つ上だった。福岡出身で顔が薄く、肩につくくらい髪を伸ばしていた。根っからのパンクスで柄シャツにライダース、ドクターマーチンを履いていてガリガリだった。本人は「嵐の二ノ宮くんに似てると言われる。」と言っていたけど、私は実写版GANTZに出ていた時の綾野剛っぽいなと思うので、それを想像してほしい。
私は最初の頃、Rさんが苦手だった。声が低くて博多弁で荒っぽい喋り方、女子供は相手にしないぜみたいな雰囲気が怖かった。
一度私が部室でギターの練習をしているときに通りがかったので、「ピッキングハーモニクスってどうやったらできますか?」と聞いたら、
「そんなもんできんでええやろ。」と言われて相手にされなかった。
その後、Rさんは私のことを呼ぶとき、「おい!そこのDQN!」と呼んだ。
本当に失礼な人だなと思って無視していたが、このあだ名が定着してしまい、しばらく私は先輩たちからDQNと呼ばれていた。恥ずかしかった。

 サークルに入ってしばらくしてから、新入生歓迎コンパが開かれた。私はその頃、大学進学とともに上京していったバンド仲間に対して寂しさがあり、同級生の友達ができないことやバンドが組めないことで落ち込んでいた。
みんながワイワイしてる中で一人ボケっとチャーハンを食べていた。
そしたら隣にRさんが来て話を聞いてくれた。「お前の気持ち、なんかわかるよ。」と言って一緒にチャーハンを食べてくれた。
それで私は恋に落ちた。単純だ。でも18歳ってそんなものだ。

 それから私はRさんに猛アタックした。一緒に古着屋さんに行かないかと誘ったり、部室の前で話かけたりしていた。かわされていたけど、その後仲良くなった同級生の男子もRさんを熱烈に慕うようになり、3人でよくドライブに行くようになった。「R会」とRさんの名前そのままの会を結成して、夜な夜な遊んでいた。そして私は七夕の日にメールで告白した。
「好きです。付き合ってください。」
「まだ知り合ったばかりなのでごめんなさい。」
数分でフラれた。
私はR会のもう一人のメンバーである男子に報告したら、そいつも距離感バグり男だったために、「俺が一緒に行くからもう一回告ろう!」となって、朝の5時にRさんの一人暮らしのアパートに行き、直接会って再度告白した。
Rさんは寝起きで困っていたが、私が真剣に目を合わせて、好きですと言ったので
「なんか今ズキュンってきた。わかった、付き合おう。」と言ってOKしてくれた。
Rさんはたまに「ズキューン!」と書かれた毛皮のマリーズのTシャツを着ていた。そういうことなんだろう。

 私たちはそれからほとんど一緒に過ごした。放課後サークルに行き、各々の練習が終わるとコンビニでアイスを買ってRさんの家に行った。
Rさんの住む部屋はゴミ屋敷だった。大量のレコード、CD、漫画、Tシャツ、空き缶で溢れていた。ベッドもボロボロ、ユニットバスもカビだらけ。シンクにはいつ使ったかわからないコップがずっと置いてあった。だけどすごく居心地がよく、私は彼の好きなものをそのまま好きな女になった。同じTシャツを着て、同じ音楽を聴き、同じ漫画を読んだ。私が今好きな音楽はほとんどRさんの影響だ。典型的なクソサブカル大学生カップルである。私は髪型もRさんと同じになっていた。

 社会人になってからの私は、恋人ができると「お母さん」のようになってしまう。尽くしすぎてしまうし、要らない心配をしてしまう。干渉しすぎてしまってウザがられてボロボロになるのがいつものパターンである。でもRさんと付き合った4年間では私は一度もお母さんにならなかった。
Rさんが私のお母さんになったからだ。

 少しセンシティブな話になるが、私は実の母親と長年うまく関わることができなかった。今もうまくできているかと言われればわからないのだけれど、学生時代は顔を合わすのが本当に辛かった。母から逃げまくっていた。詳細は控えるがよくある家庭環境のあれそれでそうなってしまった。
付き合って半年くらいしたときに、あまりに家に帰りたがらない私をRさんが心配するので、母との関係を話した。するとRさんは、「俺がお前を育てるよ。」と言った。咄嗟に出た言葉だったが、Rさんは確かに私を育てていたと思う。
私は母に甘えられなかった分、全力でRさんに甘えたし、ときには友人関係のいざこざを話しては、「それは半さんが悪いから、明日謝りなさい。」と叱られたり、人見知りすると「ちゃんと挨拶しなさい」と注意された。「ごめんなさいをたくさん言うより、ありがとうと笑顔でたくさん言う女の子が可愛いんだよ。」なんかも言われた。
Rさんは人とずっと一緒にいても苦じゃないタイプの男性で、私がずっと彼の部屋にいても平気な顔をしていた。Rさんが漫画を読んで寝転がっている横で、大音量でギターを弾いても怒られなかった。私のギターが上達するととても喜んでくれて、娘の成長を見守る母そのものだった。
Rさんはどこにでも私を連れていって、いろんな友人や先輩を紹介してくれた。たまにふざけて「嫁です。」なんて言っていたが、よく「ウチの半さんは〜」と話すことがほとんどだった。

「ウチの子」

私はRさんの子になった。

 私は今では恋人の部屋が汚れていたら頼まれてもいないのに掃除をするし、ご飯を作ったり、相手が落ち込んでいたら全力で機嫌を取りにかかる。そしてウザがられるか、私のメンタルがボロボロになる。繰り返しになるけど。

 私はRさんに対してそういうことを一切しなかった。Rさんの部屋は埃まみれで散らかっていたし、ジメジメしていたけど別に困ることはなかったのでそのまま居座った。料理を作ってあげたことはない。普段ほか弁やラーメンを食べて済ましていたし、冬に鍋をするときはRさんが食材を切った。私は食器すら洗った記憶がない。一度Rさんが実家に帰っているときに部屋を掃除してあげようと頑張ったけど、お風呂掃除だけで疲れ果ててあとは漫画を読んで終わってしまった。だけど帰ってきたRさんは私を大袈裟に褒めた。すぐにお風呂場は汚くなったけど。

 機嫌を取ることもしなかった。Rさんはオラついて見えるけど、本当は穏やかで柔らかい人だった。彼は大学卒業後、CDショップでアルバイトを始めた。人当たりが良かったし音楽に対する情熱もあったので自分のコーナーを作ったり、独学でイラストレーターを使えるようになってセンスのいいポップを作ったりしていた。するとみるみるうちに店長になった。何もかも順調にいってるように見えたが、バイト生の扱いに困り、「仕事に行きたくない」と家で泣いたりすることがあった。それに加えてRさんが卒業後も続けていたバンドのボーカルが精神に異常をきたし、奇行をするようになった。Rさんはボーカルの親友だったので、ショックは大きかった。ボーカルも地元は遠く離れた県にあり、身内が近くにいなかったためRさんがボーカルの様子を心配して見に行くことが度々あった。
そうしてRさんは頭頂部に500円玉くらいのハゲができてしまった。
今の私だったら恋人がそんな状況になっていたら全力で心配して何も手につかないし、この状況を改善する方法を必死で考えてアドバイスするだろう。だけど当時の私はしなかった。
Rさんに「今ハゲどのくらいになってる?」と聞かれたときに、写真を撮って見せてあげることや
一緒に帽子を買いに行くことしかしなかった。

 なんでそんなに平気でいられたのか、今は全然理解できない。当時の私、もっと寄り添えよ!なんかサポートしろよ!と思うけれど、大学生の私は自分のことで精一杯だったのもある。
学業はかなり一生懸命やっていたし、サークルも全力で楽しんだ。友達もたくさんいたし、バイトも週4でやっていた。自分の中でRさんは絶対に欠かせない存在だし大切だけど、それだけに集中している暇はなかった。
それこそお母さんなのだから、いるのが当たり前なのである。
家に帰ったらいつもいる。私は安心しきっていた。

 付き合って2年経ったとき、私たちはセックスレスになった。まだ20才だった私はなんでだよ!という気持ちでいっぱいだったが、Rさんの
「半さんはもう俺の家族なの。家族とセックスっておかしいでしょ。」という持論で納得し、責めたり喚いたりせず、受け入れた。
セックスをしなくとも毎日一緒のベッドで寝ていた。キスもその後2年間しなかった。
だけどRさんからの愛情はちっとも変わらないどころか深くなっていくように感じて、私は幸せな気持ちで過ごしていた。

 私は恋人に対して可愛く怒ることができない。普段の不満を溜めて溜めて、冷静に話をしても相手に伝わらなかったり受け入れなかったところで大きく爆発する。
Rさんにはなんでも言えた。女の子のいる飲み会に行くなとか、ヤキモチを焼くことだったりしょうもないことがほとんどだったけど、Rさんは私の扱いを心得ていたので、洗濯物を畳みながらハイハイ言ってかわしていた。
大抵私の文句は夜に発生するので、「とりあえず寝なさいよ。」とポンポン寝かしつけられて朝になるとまんまと怒りを忘れた。
逆にRさんからの要望もはねのけた。
「半さんはロックっぽい格好が似合うんだから昔みたいにヒョウ柄とか着てよ」と言われても、
「そういうの飽きたから嫌だ。今はローリーズファームを着るんだ!」と言い返していた。
Rさんは私が人としてのマナーを守っていれば特に口出しすることはなかったので、基本は私がワガママをいう立場だった。

 私は正直、Rさんのやっているバンドのファンではなかった。Rさんは好きだしギターも上手だと思うけど、なんかピンとこないなーと思っていたのでライブも数回しか行かなかった。それなのにRさんは私のライブに毎回来てくれた。チケットを買ってくれて、終わったら大袈裟に誉めた。「半さんのバンドが一番良かったよ!」と、満面の笑みで言う。本当に大したことないのに、「ウチの子が一番だ」と言ってくれる母だった。

 そんなこんなで私は大学4年生になり、関東で就活をした。60社くらい落ちて履歴書を書くのにも飽きてきていたけど、飛行機に乗るのは好きだったし東京の街を歩いているのが楽しかった。東京に行くたびにディスクユニオンで1枚CDを買い、帰りの飛行機で聞いて帰った。そうして9月頃に1社内定をもらったのでそこに行くことに決めた。
Rさんはというと、高円寺に住むのが夢だったらしく私も同じタイミングで上京すると言っていた。私の働く場所からは少し離れていたので一緒には住めないけど、休みの日に会えるじゃーんイェーイという気持ちで浮かれていた。

 しかしRさんは家庭の事情で福岡に帰ることになった。詳しくは書かないが、そりゃ帰るしかないよねという内容だった。私が先に上京したのでRさんは空港で私を見送ってくれた。しばらくして私たちは別れた。

 私は辛いときによく大学時代を思い出してしまう。こんなこと言う大人にはなりたくなかったのに、「あの時が一番楽しかった。」と言ってしまう。学生はお気楽でそりゃ楽しいよと思うかもしれないが、そうではなくRさんという絶対的な支えがあったからだと私は思う。

 かと言って、Rさんに未練は全くない。なぜなのかは自分でもわからないが、Rさんが結婚したときは心底嬉しかったし、当然だと思えた。自分がどんなに辛くてもRさんは幸せでいてくれよな、とすら思う。

 正直、私はまだまだ子供時代の苦しみから抜け出せてない。なんでだよーと実の母を責める気持ちもある。だけど、大学時代の4年間は確かにRさんが私のお母さんをやってくれた。私の理想のお母さんだった。優しくてあったかくてちゃんと私のことを見ててくれた。成長を心から喜んでくれて、恥ずかしいくらいに親バカのお母さんだった。

 昨日の夜、自分の子供時代を受け入れられない気持ちと葛藤しながら、Rさんのことをふと思い出したときにRさんのことを書こうと思った。

もうRさんが4年間私を育ててくれたからいいよ。もうこれ以上苦しまなくてもいいんじゃないと思えた。

 私がもしもいつか子ども産んだら、Rさんのようなお母さんになりたい。

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