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黙ってたって過ぎてゆく - 2020.11.3

皿が無い。いや、厳密には皿はある。なんなら男の一人暮らしにしては十分過ぎるほどある。実家から持ってきた器、蚤の市で手に入れたグラス、旅先で見つけた一点もの等々。どれも思い入れを持って買った皿たちだし、どれもお気に入りだ。だというのに料理を作り、いざそれを盛る皿を選び始めるとなかなかどうして皿が無い。チキンカレーとキーマカレーでは盛る皿を変えたいと思う僕がイカれているのだろうか。日によって使いたい醤油皿が違うのは当たり前ではないのだろうか。余談だがお茶の味は急須の形や素材によって大きく変わる。道具の多様性には理由がある。物欲には無い。

蚤の市と陶器市ほど心躍るイベントも無い。いや、厳密にはフジロックがあるが、こと買い物においては服を買うより器を買う方が楽しみな僕である。今年はコロナの影響で市という市がオンライン開催を余儀なくされてしまった結果、日本全国のありとあらゆる市に参加できてしまっている。ネットで見る器はやはり質感やサイズ感など、フィジカルな手触りに乏しく、なかなか食指が動かないでいたのだが、今開催中のPASS THE BATONの陶器市は素晴らしい。器に添えられた人の手は、写真に温度感を与えてくれる。実際の色味や手に持った感じ、何を盛るかまでが想像できる商品写真に導かれ、また僕は皿を買った。

皿が足りない。いや、番長皿屋敷ではなく。小さなこだわりだが、来客があった際は全員に同じ湯呑みでお茶を出したい。そうでなければ全員に違う湯呑みで出したい。取り皿も然りだ。今ある揃いの湯呑みは多いもので3つ。取り皿に至っては2枚しかない。こうなったら全てバラバラの器で雑多なのにどこか統一感のあるテーブルコーディネートを目指さざるを得ない。ここが地獄の一丁目である。

こんなんなんぼあっても良いですからね〜。いや、ねるねるねるねの2の粉でなく花瓶の話である。先日ついに我が家の花瓶が10を超えた。そのうち花が飾ってあるのは多くて4つだ。近頃は花瓶である必要すらなくて、筒っぽければなんでも良い。先の陶器市でも有田焼の真っ赤な徳利に花器みを見出して思わず買ってしまったし、外食時にワインやクラフトビール、年代物の紹興酒の瓶など、気に入ったものがあると持ち帰るためにボトルを飲み干してしまう。ベロンベロンで持ち帰った南アフリカのワイン瓶には、ドライにした紫陽花が飾ってある。美味しく、そして美しい。良い買い物をしたものだ。

あなたのおかげで生活苦から抜け出せそうです