橋本治と落語9

橋本治が大学に入学したのは昭和42年、落語ブームはもしかしたらやや下火になっていたかもしれないが、一度生まれた粋を求める層と笑いを求める層の溝は簡単に埋まるものではない。もしかしたらブームでなくなった分だけ溝は広がってしまったかもしれない。現に令和になった今なおこの溝は埋まっていない気がしている。
そして橋本治の大学は東大である。お勉強の得意な人たちが集まるような大学で、仮に落語愛好家と称するような人たちがいたとしたら、その多くは落語に粋を求める層であったであろう。こういった層の人々が、笑いを求める層をどのように見るかは、もう容易に想像がつく。
橋本治の生涯の仕事を通じてわかることは、橋本治は常に、杉並区の牛乳屋の息子(=大衆のひとり)でありつづけ、幼い頃の経験で感じたことをずっと忘れずにいたことである。以前紹介した『文学界』の記事には、「テレビ以前のラジオの段階で落語を聴いて笑っていた」という記載もある。橋本治は当然のように落語は楽しく笑えるものと考えていたであろう。そんな橋本治が上記のような環境におかれたら、落語と距離を置き、関係ないという立場をとるようになるのは当然だったかもしれない。
そんな橋本治が落語世界文学全集をはじめたのだ。これまでも橋本治は"関係ない"と考えていたものを題材にしてきている。三島由紀夫、小林秀雄、明治文学···これらはすべて日本語で小説を書く橋本治には避けて通れない道であったであろう。枕草子や源氏物語、古事記など古典関係の仕事ももちろんそうであったはずである。日本語というものを根本から考え直していた橋本治がとうとう落語に戻ってきたのである。時代劇をベースに通俗を論じかつ日本の文藝の歴史も論じていた稀代の名著『完本チャンバラ時代劇講座』にすら落語はほぼ触れられていなかった。抜けていたピースがやっと埋められると思っていた矢先、橋本治は亡くなってしまった。
『文學界』の記事には次のような記載もある。
"根は野蛮なくせに、表向きは文化の顔を見せたがるその頃の日本で、「なぜ日本には"笑いに関する系譜"がないのだろう?」と思った。日本という国は、結構「バカバカしい」ことを大切にする国であるにもかかわらず"
橋本治の仕事は、この「表向きの文化の顔」の部分を自らの手で改めて見直し、"笑いに関する系譜"を組み込んでいく試みだったのである。
完成された話芸である落語、そしてその話芸を活字にすることに成功した明治初期の速記、さらにはその芸が"笑い"のためのものでもあった、このような視点から、最後に落語にたどり着いた橋本治の仕事を改めて整理したいと思う。
まず手始めに、"笑いに関する系譜"ではないものの、"笑い"と同じように系譜が作られることがなく"通俗"とバカにされもしたチャンバラ映画(とそれに類するもの)を徹底的に論じた『完本チャンバラ時代劇講座』について、タイトルを変えて見ていきたいと思う。

「精読『完本チャンバラ時代劇講座』」へつづく

ここまでの参考文献
橋本治全著作
『文學界 2005年9月号』
『文藝倶楽部 明治40年』
『講談落語考』関根黙庵
『圓朝全集 巻13』
『浮世断語』三遊亭金馬
『落語界 昭和五十一年十一月晩秋号』
『随筆 寄席風俗』正岡容
『落語のすべて』
『聞書き古今亭今輔』山口正二
『噺家の手帖』林家彦六
『落語名高座全集 別冊解説書』
『昭和戦前面白落語全集 解説書』


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?