橋本治とミュージカル 1

橋本治は『根性』収録「渋谷の歩行者天国'86」のなかで次のようなことを言っている。
"チャンバラ映画の本の中に、実は"日本のミュージカルの歴史"っていうのをキチンと入れないとマキノさんの位置っていうのは浮かび上がって来ないようなもんで、まだそこまではやれてない。"
そう書いて、その後も日本のミュージカルの歴史についてはしっかりとは書かれていない。以前こちらのnoteでも触れた『川田晴久と美空ひばり』に寄稿した「日本式ザッツエンターテインメント」が最もしっかり書かれたものかもしれない。
そこで断片的ではあるが、日本のミュージカルについて触れたその他のものをいくつか読んでみたいと思う。
ひとつは、初出『テレビマン·ユニオンニュース』で、浦谷年良との対談「ミュージカルが好き」である。
まず浦谷が柏で行われたセーターファッションショーを見終わってから「もう宝塚やるしかないね」と言ったエピソードを語る。橋本治は結局宝塚の脚本家になって演出をしたいんだと。それに対して橋本治が、なりたい、菊田一夫先生のように。「作ならびに演出」で、と。「宝塚やるっきゃないね」って言われると俺本気になっちゃうからサ、でもそれより『巨星ジーグフェルド』(MGMミュージカル映画)のレビューの方が好き。もう訳分かんないから好きになるんだけど、と言う。
この『巨星ジーグフェルド』は『ザッツ·エンターテインメント』で一部が出てくる映画である。橋本治は、日本ではMGMのミュージカルはこの『ザッツ·エンターテインメント』(1974年)でやっと受けたと言い、『ウエストサイド物語』(1961年)以前、日本ではミュージカルが流行らないというジンクスがあった、と言う。ミュージカル見ても、楽しい!ってことを押さえ込んでる人っていうのがいる、と。一方で「きれいだなぁ」と思っていれば評価もへったくれもなく、"きれい"ってことだけを覚えていられる人もいる。その例として、早川タケジと山口小夜子との座談会で、山口小夜子が「サザエさん、昔すごく素敵だったわ」といっていた話を出す。江利チエミのサザエさんは、突然ミュージカルシーンが出てくる映画である。
好きな宝塚の話になって、『霧深きエルベのほとり』で内重のぼるが歌う『おいらマドロス』という歌が、石原裕次郎の『嵐を呼ぶ男』と本質的に全く同じものだと分かったと言い、裕次郎には『霧深き~』はできないけど、内重のぼるだったら『嵐を呼ぶ男』も『赤いハンカチ』もやってしまうだろう、と言う。表現するときの幅の広さが大切だ、と。ゴチャゴチャした"不純物のジャンル"みたいなものを切り捨ててしまうと幅は狭くなってしまう、と。
そして日本におけるミュージカルの可能性として、のちの『嘘つき映画館シネマほらセット』へ繋がるような妄想話がつづく。
『シャレード』は、竹下景子のオードリー·ヘップバーン、ウォルター・マッソーは財津一郎でやれる、ただケーリー・グラント役が難しい。仲谷昇はいいと思うがそうするとウォルター・マッソーは津川雅彦だなぁ、というように。
(86年当時から見て)一昔前の郷ひろみなら『雪之丞変化』、時代劇じゃなく現代版で。
浦谷年良は市川崑の新東宝時代の『盗まれた恋』のリメイクができるなぁとコメント。
橋本は最後に、『四谷怪談』を現代ものでやりたいといい、自らの処女戯曲『ぼくの四谷怪談』が『マイ・フェア・レディ』の様式にあてはめて、最後は『ヘアー』になるというシロモノだった、と語る。
浦谷の対談後のまとめは、昭和17年の木村恵吾監督『歌ふ狸御殿』のようなユルイ踊りと歌から出発するしかないなぁ、あとはかつて日本国中を踊らせて廻った振り付け師花柳徳兵衛のようなエネルギーが必要だなぁとコメントしている。
つづいても対談、相手は松島トモ子。「近くて卜ーク---いつか一緒にミュージカル!」、初出は雑誌『BH』1984年10月号。
橋本治が、『ザッツ·エンターテインメント』が日本に来たとき、誰かが、"タップダンスをやらなくなってから、ミュージカルが死んだ"と言っていて、『ザッツ·エンターテインメント』をみたら本当にそうで、ああいう楽しさがないと、ミュージカルはつまんない、と言うと、松島トモ子が、最近ニューヨークに行った時、13本やっていたミュージカルのうち9本がタップで、それを見て、これはやらねばと思った、と言う。
橋本治はこの対談で、自作の『ぼくの四谷怪談』を割りと詳しく語っている。
ミュージカルは、ブロードウェイの2幕形式が本当だと思っているけど、こっちに枠がないと内容が追いつかなくなるから、内容のある『四谷怪談』を『マイ・フェア・レディ』の形式に嵌め込んだ。1幕のラストを穏亡堀のシーンにしてタップダンスのダンスナンバーにしちゃった。で、テーマが田宮伊右衛門が青年の苦悩をするっていうのだから、最後は『ヘアー』の群舞が一番いいと思ってそうした。考えてみるとバカな発想をするなあ、と語っている。
この対談でも『歌ふ狸御殿』が出てくる。橋本治はこの映画を、本当に凄くて面白い、と言う。もう一遍映画にしたい、と。ネックは歌が全部ベルカントなことで、こういう歌い方をできる人が何人いるか。あとみんな和服で踊る、という昔の歌劇団では割りと常識だったものが、今は常識じゃなくなっているということもある、と。
そして、何がいちばんやりたいかというと、『雲の上団五郎一座』の台本を書くことだ、と言う。
松島トモ子は、あたし出てたのよ(笑)、おもしろかったですね、何だかハチャメチャで、と答える。
橋本治は、ああいうのがいちばんいいと思う、たいへんな積み重ねだから、今やろうとしてもやれる人は数少ない、と言う。
三木のり平、八波むと志、有島一郎、エノケン、森光子、越路吹雪など、そういうすごい人と同じ板を踏めてたり同じスクリーンに出てたりしたのは、すごいことだったと松島トモ子は回想する。
なお、橋本治死去に際しての、小林のり一(三木のり平の息子)のツイートによると、橋本治はのり一氏に会った際、雲の上団五郎一座に出る人になりたかった、と言っていたそうな。

つづく
次回は脚本として世に出た初の作品である『月食』についてと、幻の処女作だった『ぼくの四谷怪談』が蜷川幸雄によって世に出た際の対談など



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