橋本治と宗達、光琳

橋本治は『ひらがな日本美術史』において、俵屋宗達のことを次のように言う。
「俵屋宗達は天才で、日本美術というものは、俵屋宗達を最高の画家とするような形で存在している」
その理由は、宗達の絵が「笑っている」から。だからこそ最高なのだと。
天才というものは、いくらクソ真面目に仕事をしたって、どっかで遊んでいたり笑ったりする余裕があるものだろう、と言う。
以下、橋本治による宗達の分析を続ける。
俵屋宗達の不思議は、「自分の描き方」を持っていながら、平気で「他人の描き方」をするところである。平気で「稚拙な表現」を取り入れたりもしている。
実のところ宗達は、やたらいろんな種類の絵を描いているのである。それは宗達が「俵屋」という屋号を持つ「絵屋」の主人だったからであろう。人に注文されればなんでも描くし、人が喜びそうなものなら、一応なんでも描いてしまえる。「いろんなものに絵を描く」は、「いろんな注文に応えて絵を描く」で、「客の嗜好を先取りしていろんな絵を描いてしまう」ということでもあろう。「自分の描き方」を持っていて、しかもその「自分の描き方」から離れた「題材にふさわしい描き方」を持っていなければ、絵屋という職業は成り立たないであろう。「いろんな風に絵を描ける画家」というのは、宗達の前にはいなく、宗達の後にだってそうそういない。
宗達の絵のすごさ、「理屈」というものが一切ないところにある。説明がいらない。絵がただそこにある。なぜ「説明」をしないのか?それは、絵を描く宗達が、「線」と「面」をあまり厳密に区別しないからであろう。彼は、描く前から、「描かれるべきものの形」を明確に把握している。それが筆を握った途端、「ああ、こんなもんか··」という形で了解されてしまう。宗達はそういうプロフェッショナルの画家である。
宗達の超越は、「彼が平気で説明という行為を超えていて、しかもなおかつ、説明しようと思ったら、誰よりもちゃんとその説明が出来るから」である。
以上いかがであろうか。これまでの文の、"俵屋宗達"を"橋本治"へ、"絵"を"文章"へ置き換えて考えてみれば、そのまま橋本治自身の解説にもなるものであると私は思うのである。
一方の尾形光琳である。引き続き『ひらがな日本美術史』より橋本治の分析である。
尾形光琳は俵屋宗達より一世紀ほど後の人物である。そして尾形光琳の曾祖母は、宗達と親交のあった本阿弥光悦の姉である。だから幼い頃から光琳の家には宗達の絵があったらしい。
尾形光琳は、宗達や光悦の遺した作品を前にして、結構苦労して「自分の絵」を作り上げた人物なのである。
尾形光琳は「写実の人」である。ひたむきに写生をすることが似合っていて、それがそのまま絵になることがもっとも美しい人だった。
と同時に光琳は「琳派の大成者」と言われる。琳派と言えば、日本的デザインの源流ともなる「様式美」であり「装飾美」である。そう考えると「写実」からは遠い人ともなる。だがしかし尾形光琳は「写実の人」である。それは彼の「植物の絵」を見ればわかる。「植物の絵」は緻密で、理性的で、自信がみなぎっている。
光琳はいろいろな絵を描いた。それは彼が十数年間、果たして自分の描くものが「植物の絵」だけでいいのかと悩み、模索を繰り返した結果なのである。光琳によるいろいろな写生は、「分からないから、きちんとメモして理解しておこう」というものであり、彼の絵の下には真面目な努力があるのである。一生懸命写生や模写をしていた、そういう画家だったのである。
このような「理性的な緻密」の光琳とは別に「単純明快なる能天気」という部分も光琳にはある。なんの屈折もなくのびのびと「金」を使ったりしている。「緻密」と「能天気」という矛盾しそうな二つの要素がなぜ一つになるのかというと、それは彼の前半生が「生活に不自由しないお坊っちゃん」だったからであろう。彼は雁金屋という高級呉服店の息子であった。小さい時から絵を習い、「呉服屋の息子だからこその絵の知識」が生まれた。それが「模様の創造」つまりデザイン能力である。
「見ることにおいて緻密であり、処理することにおいて大胆である」それがデザイナーに必要なものであるが、これはそのまま尾形光琳である。彼はこれが出来た人だが、一瞬にして出来た人ではない。結構な紆余曲折があり、"努力"があったのである。
以上、こちらもいかがであろうか。
"尾形光琳"を"橋本治"へ、"絵"を"小説"へ置き換えて考えると小説家橋本治の分析になるのではないかと私は思うのである。


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