精読『完本チャンバラ時代劇講座』第二講その二

ヒーローがどんなものであったかを語った橋本治は、逆の立場の悪人がどんなものであったかを語り、そこから"通俗"に通底する"正義"を語っていく。以下----。

東映のチャンバラ時代劇には基本的なパターンがある。それは一言でいえば"勧善懲悪"である。ヒーローが悪人を倒す。ヒーローはその一で語った早乙女主水之介に代表されるようなものであるが、では悪人はどうであったか。
悪人とは私利私欲に走る人たちである。そういう人は、自分のくだらない"野望"と称されるようなことばっかり考えているような、"物を考える"人間だったのである。東映のチャンバラ時代劇の世界では、悪人は分かりやすく"悪人の顔"=物を考える人間の顔をしていたのである。
東映の代表的悪役スター三人を比較するとあることがわかる。
一人目は進藤英太郎。この人は元々"新派"の人だった。
"新派"とは"旧派"に対する言葉で、"旧派"とは歌舞伎を指す言葉だった。同じく歌舞伎を"旧劇"と言って、それに対する"新劇"と表したのと同じである。だから平たく言えば"新派"は昔の"新劇"のことである。
西洋から"近代的知性"というものが入ってきたとき、歌舞伎を見て、自分達の実際とかけ離れていると感じた演劇青年達は、自分達の芝居を作ろうと"新派"や"新劇"を作ったのであった。
"新派"は新しい時代の演劇を目指し、そこでは新しい時代の人間の心情が必要とされ、新しい心理を表現しようとしたのであった。
進藤英太郎の演技は、善人とも悪人ともちょっと見には分からないどこか得たいの知れないものだが、はっきりとイヤな奴というのが伝わってくる、心持ちの演技だった。逆に言えば、この人は、実際の斬り合いになったらそう強くはないんじゃないかというような悪役でもあったのである。
二人目は"新劇"出身の山形勲である。この人は歌舞伎の六代目尾上菊五郎が作った日本俳優学校に入学し、その後新派の大物井上正夫の作った井上演劇学校に入り、そこを中途で脱退、その後文化座という劇団を作った人である。一人で日本の演劇史をやっているみたいだが、役者修行に"学校"というものが入るのが、現代人である。
この人の悪役は非常に理性的で、近代的な大企業の敏腕専務という感じがするものであった。有能であるのだが、その自分の有能さが自分の首を絞めニッチもサッチも行かなくなって、その結果公然と悪に走る、というようなそういう怖さ、現代人が最も陥りやすい冷酷な悪というようなものであった。
新劇は新派よりも新しくモダンなもので、理屈を言う演劇だった。新派が新しい心理であるのなら、新劇は新しい主張だった。新派が心で、新劇は頭だったのである。
歌舞伎=旧劇の人が物を考えないわけではもちろんないが、舞台で理性的な目をしていたら「表情が生だ!」という叱責が飛ぶのが歌舞伎という形容美の世界である。どうすれば美しいか、どうすればカッコいいかがスターの義務である、そういう世界なのである。
三人目も新劇出の役者、山村聡である。この人は山形勲と文化座を作った人で東大出身者である。生きている近代的知性の権化のようなものである。決して悪いことをしない信頼できる大企業の重役のお父さんといった感じなのだが、この人はチャンバラ映画の世界では悪役をやっているのだ。どんな役かというと、進藤英太郎や山形勲扮する大悪人に利用される傀儡役の殿様である。
傀儡といっても、当人にも天下を奪おうという気が十分にある立派な殿様である。
そんな彼はなんにもしないのである。悪事のお膳立ては、全て家臣である大悪人に任せて、自分はそれを見ているだけなのである。
悪事が露われて、この殿様は、「斬れ!斬ってしまえ!!」と命令をするが、決して自分で刀を抜こうとはしない。
考えているだけでなんにもしない、立派そうな顔をしていてもオタオタして逃げる---日本が平和になって所得倍増から高度成長へ向かって、その先は"本物志向"だとか"カルチャー志向"という"知性の時代"がやって来る、そのトバ口でもっとも人間的な"知性"がそういう扱いを受けていたのである。
つまり、「やっぱり近代っておもしろくない、だって近代的知性ってうさんくさいんだもの···」とみんなが思っていたからこそ、こういう人達が悪役に扮していたのである。
そしてそういう悪を滅ぼして正義は勝つのである、華麗な剣の舞で。
物を考える悪人の仕掛けた"謎"を解く正義の側も、当然頭を使うわけだが、そんなことよりカッコ良さが第一なのである。
"正義"というのは"正しい義"のことである。では"義"とは何かというと、"正しい"という意味があり、"意味""正しい筋道""礼儀""道理"という意味もあるが、元々の意味は"姿形の美しさ"のことなのである。
口先だけの納得ではなく、体全体で納得出来るように、正義は"美しい外見"を必ず備えていなければならないのである。美しさを実感させるための段取り、テンポ、様式を持っていて、それで正義なのである。
見た目の派手さが強調される"通俗"であるが、"正義"とはもともとそういうものなのである。
東映のチャンバラ映画のラストは、必ずと言っていいほど、"日本晴れ"だった。正義に助けられた名もなき善と、それを助けた美しい正義が、お互いにニッコリと笑って、別れて旅立っていくのだ。
晴れ晴れとした顔で"明日"へと向かって行くのが、或る時期の
日本を代表する"娯楽"であり、それが"通俗"だったのである。

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