橋本治と落語6

前回名前だけ出した三語楼について触れたいと思います。
三語楼は、明治末ごろ圓喬に弟子入り、圓喬死後転々とし、三代目小さんの門に入る。大正中期以降になると、英語を織り混ぜた"インテリ落語"で一世を風靡。その特徴としては、本題の話よりマクラの雑談のような世間談義に真骨頂があったと言われる。全盛期の弟子には金語楼(三代目小さんの弟弟子にあたる)、甚語楼(のちの志ん生)や権太楼などがいた。戦中戦後の落語において、この弟子の金語楼の存在が重要である。彼は三語楼の業績を乗り越え、現代落語の創作に成功し、爆発的な人気を勝ち得たのであった。金語楼の創作落語は、震災で劇的に入れ替わってしまった都市部の人口構成によってうまれた、新しい落語の聴き手にぴったりと合致するものだったのであったのだ。一時は、毎月2つの新作を発表する会を独自に開くという驚異的な活躍を見せるほどだった。
彼は、昭和5年、当時若手で人気トップだった柳橋(六代目)とともに、日本芸術協会を設立、これは現在も落語芸術協会と名を改めて続く会となっている。師の三語楼が独立して三語楼協会を設立するも失敗に終わったことを考えると、その点でも師を越えたと言えるかもしれない。昭和10年くらいからは喜劇役者としても活躍するようになり、徐々に寄席への出演は少なくなっていったようであるが、有崎勉の名で新作の落語は書き続けていた。

さて、第二次落語研究会は、昭和19年まで継続的に行われていましたが、出演者等資料が乏しいため、ある一人の落語家の活動をもとに、戦中·戦後昭和30年代までの落語会とそれを取り巻く状況を見てみたいと思います。いよいよ橋本治を落語から遠ざけることになってしまった状況が近づいてきました。
ある一人の落語家とは、前回も少し名を出した、三代目三遊亭金馬である。金馬は若い頃講釈師をしていたが、講談を話しているとなぜか笑われることから落語家へ転身、大正2年20歳で初代圓歌の弟子になった。初代圓歌は圓右の弟子であったので落語研究会とも関わりが深い。金馬はその落語研究会で、師よりも藝において私淑することとなるむらく(のちの三代目圓馬)に出会う。このむらくが師の橘之助との関係で圓蔵ともめ事を起こし、むらくの名を返上し旅巡業に出ることになった際には、弟弟子の歌寿美(のちの二代目円歌)に師匠の世話を任せて、むらく(名を橋本川柳と改める)に同行することにしたのだった。この旅巡業が金馬の藝にとても重要なものとなる。三代目圓馬は、圓左から話を学んだ人だったので、基本に忠実な話風、それに加えて圓馬独特の豪快さが魅力だった。この旅巡業で、金馬は圓馬から直接噺を教わりもし、かつお酒を飲んでいるときなどにも積極的に藝の話を圓馬から引き出すようにしていた。圓馬は全く嫌な顔ひとつせず、藝の話をしてくれていたそうである。2年の巡業を経て、圓馬は大阪に定住、三代目として圓馬の名を継ぐこととなった。金馬は東京に戻り、研究会等で頭角を現し、二代目金馬から力を認められたことから、大正13年にその名を継ぐこととなった。
前回でも触れたが、昭和9年の東宝と落語組合とのいざこざの際には東宝に操をたて、所属していた落語協会を脱退、以後は東宝専属となり、生涯他に所属することはなかった。それにより、寄席への出席は年に数回客演として出るのみにとどまった。
東宝でともに腕を磨いたのは、四代目小さん、七代目正蔵、馬楽(八代目正蔵)、七代目可楽、権太楼などであった。

この金馬や先に触れた金語楼に対する、いわゆる評論家と呼ばれる人たちの評価(特に戦後)が、昭和30年代以降における落語を取り巻く状況を如実に表すものとなっている、と私は考えている。

つづく


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