橋本治と落語3

明治落語界の棟梁三遊亭圓朝には現代の落語へと続く弟子筋がたくさんいる。その弟子筋とさらにはその落語がどのように享受されていったかをたどることで、昭和30年代ごろの、橋本治を遠ざけた落語をめぐる状況が多少なりともわかるかもしれない。
まずは三遊亭圓朝自身についてを少し。
昭和3年に発行された圓朝全集巻の13に収録された岡鬼太郎「圓朝雑感」によると以下のようである。
「餘り高くない、静かな調子で、シトシトと話し出す其の工合、根が芝居話で叩き込んである技両、芝居気満々たる自作の話、と斯う揃つては、聴客一同、宛ら芝居を観るの感なき能はずで」
「圓朝の殊に勝れていたのは、話の意気、其の場の気分を作り成す事、これ等の大事な點であつた。」
「一度心を捉えられた聴客は、泣くも怒るも笑ふも喜ぶも、皆圓朝の舌三寸の為るが儘であつた。」
「圓朝の人情話は、昔からの習慣、即ち、当時における文樂、柳櫻等の藝風とは大いに其の趣を異にし、「面白可笑」い筈なる寄席の人情話に、一生面を開いたものである。と同時に、圓朝のは、落語家の話でない、寄席の話でない、芝居気取りで忌味である、悲しい話を自分から泣いてかかるは卑怯であるなどと、当時の寄席通の一部から、多少の非難もされた事である。」
やはり革命的存在であったことが見てとれます。
では、同時代の落語はどうであったか。
まず圓朝と並び称されるのが柳亭燕枝(談州樓燕枝)である。
圓朝と同じく芝居噺を得意としたが、どちらかというと訥弁で一本調子であったので、武士や侠客などがうまかったらしい。
高座はやや堅苦しいものがあったものの座談の席などでは別人のように面白く、そういった点では続き話よりも一席物の話の方が巧く、三題噺や即席の一口噺に天分的才能があったようである。
また圓朝と燕枝の共通点としては、文筆への影響があげられる。圓朝はなんといっても速記本の普及に大いに貢献した。圓朝の口演の速記本は世に熱狂的に歓迎されたのである。新聞に連載されるや読者数が激増したという逸話もある。一方の燕枝は、もともと博覧強記で知られ読書を好んだ人だったため、文筆の素養もあったことから、速記を断り、自身で筆記した読物を新聞紙上に連載したのである。
燕枝に次いでは柳橋(春錦亭柳櫻)が挙げられる。人情話を得意とし、地味で落ち着きのある話風であったが、得意の四谷怪談を演れば、いつも人気で大入りを占めたそうである。
他には六代目文治(三代目文楽)、四代目文楽もここに並び称される存在である。文治は芝居話を得意とし、役者の声色にも定評があったそうである。芸風は隙のないキチンとしたものだったと言われている。四代目文楽はこの文治の弟子であるが、名人畑の人だったと言われている。新富町の花街で幇間をしていた経験もあり、円転洒脱、気の利いた扮装態度で、話風も軽妙を極め、真に江戸の落語を聞きたければ、文楽を聞けといわれたほどの存在であった。
以上が圓朝およびその同時代の代表的江戸の落語状況である。
橋本治の「歌舞伎と落語とうまい小説はおなじもの」というのがよくわかる状況といえるのではないか。なぜこれが「落語は粋で歌舞伎は義理人情」などと語られるようになってしまったのか。
圓朝の弟子世代はどうであったのか。

つづく



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