精読『完本チャンバラ時代劇講座』第三講その五

歌舞伎の『勧進帳』には原作として能の『安宅』というものが存在する。内容はほぼ同じであるが、能は中世の演劇であり、歌舞伎は近世江戸時代の町人文化という点でかなりの違いが生じてくる。
中世という時代は、宗教が大きな力を持っていた時代である。弁慶が扮した山伏というものは勿論仏教関係の宗教的存在であるので、『安宅』における富樫はどこか弁慶を恐れているのである。そんな富樫に"腹芸"の入り込む余地などは無い。
そしてさらに大きな違いは、弁慶一行を富樫が通した後で出てくる。
弁慶一行を通した後、富樫は再びその一行を追いかけ、「先ほどの無礼をお詫びします」と、弁慶に酒を差し出すのである。
『安宅』では、酒を受け取った弁慶が、
"人の情の盃に、浮けて心を取らんとや。これにつけても人々に、心なくれそ"
と言う。「人の情を盃に浮かべて心を取ろうとしているらしい。関所の人間達に油断するなよ」ということであるが、戦国時代へ向かう血なまぐさい中世にあっては、人間は疑り深く、弁慶を追った富樫には「やっぱり偽物かも」という思いがあり、一方で弁慶にも、そんな関守に油断するな、という警戒がある。終始一貫"闘い"なのである。
しかし『勧進帳』では既に富樫は心を打たれているので、弁慶一行に対する疑いがあって追うわけではない。ここでの富樫の心境はどうあっても「いやァ、まいりました。本当に感動させられました。まァ、お詫びの印しに一杯」ということにしかならない。そのため、酒を受け取る弁慶の文句が、"人の情の杯を、受けて心をとどむとかや" に変わる。「人情あふれる杯を受けとって」、"浮けて"と"受けて"で読みは同じだが意味が大きく異なっている。能の"浮けて"は"こめて""ごまかして"ということの象徴的表現であるが、歌舞伎にはそんな面倒がないのである。
そしてこの後の展開にこそ歌舞伎の『勧進帳』の弱点が露呈する。能と歌舞伎いずれでもこの後弁慶は舞を見せるのであるが、能の方では"舞いながらスキを見て一行を逃す、逃さなければならない"という切迫感の表現になっている。
一方の歌舞伎は、"弁慶はごきげんになって「どれ一差し」という感じで立ち上がる"というのんきな始まりとなる。そもそも『勧進帳』ではもうすでに弁慶には舞を舞いながら味方を逃さなければならない切迫感は無いのであるが、ここが最大の見せ場になるのでいじるわけにはいかず、能以上にドタバタと派手でダイナミックな演出で弁慶は去っていく。よく考えると富樫はバカみたいだし、弁慶も薄っぺらで単純な男だ、ということになってしまうようないい加減な矛盾を最後になって露呈しているのであるが、弁慶の大熱演によってその場の観客にはバレない仕組みになっているところがいかにも歌舞伎なのである。
最後の弁慶の熱演にごまかされて、デクの棒になっている富樫の不思議さを"情ある立派な人だ"とうっかり解釈してしまうことにより、『勧進帳』は"富樫と弁慶の心の交流の物語"で、格調高い日本的腹芸の典型になってしまったのである。
ではどうして歌舞伎は最後に平気で矛盾を露呈させてしまったのであろうか。この場合それは"権威主義"という代物である、と橋本治は言う。
『勧進帳』が初演されたのは天保11年(1840年)。この演目が画期的だったのは、能の演出をそっくり持ち込んだことであった。それ以前にも原典が能という演目はあったものの、"能の様式"をそのまま持ち込むなんてことは決してなかった。これは、はじめての歌舞伎の"本物志向"というべきものだったのである。
『勧進張』を初演したのは七代目市川団十郎で、弁慶に扮した座頭役者であった。当時の座頭役者はプロデューサー兼演出家のような存在であったので、『勧進帳』の発案者はこの人で間違いないということになる。
七代目団十郎は、この『勧進帳』初演時に、もう一つ注目すべきことをしている。それは『勧進帳』というタイトルの上に"歌舞伎十八番の一"という文句を掲げたのである。"歌舞伎中の歌舞伎"というような意味の"歌舞伎十八番"という言葉もはじめて持ち出し、この『勧進帳』をそのお披露目に当てたのであった。
しかしこの初演は圧倒的に不評であった。いわく「気どってる」「テンポがたるい」「退屈」「つまんない」といったところである。大衆というものは"本物志向"に走った途端、「本物志向に走らざるをえない自分というのは偽物である」ということをこっそり暴露してしまうものであるが、さすがに天保の時代、江戸の大衆はまだ健全だった、と橋本治は言う。
七代目団十郎は懸命に再演するものの不評のままこの『勧進帳』は、明治の"劇聖"と呼ばれる九代目団十郎にバトンが渡された。
明治時代になると、西欧諸国では演劇が立派な文化になっているが、それに比べて日本の歌舞伎はなんだ、という論調が起こり、演劇改良運動というものがスタートする。歌舞伎を格調高いものへと変えていく、その模範解答として『勧進帳』が注目されることとなったのである。
明治二十年には、天皇陛下がご覧になるという"天覧歌舞伎"という催しが行われ、そこでの演目は歌舞伎中の歌舞伎"歌舞伎十八番の一"『勧進帳』がトップバッターとして選ばれた。こうして『勧進帳』は文句無しの"名作"に変わったのであった。
『勧進帳』の産みの親七代目市川団十郎は、父親が早世し、祖父の五代目の庇護のもと育ちますが、その祖父は、彼が16歳の年に死ぬ。彼は16歳にして江戸歌舞伎の王者にならなければならなかった。しかし実力の世界でもある役者の世界で王者の家に生まれたからといってそのまま王者の座につけるわけではない。彼の少し上の世代には働き盛りの多くの名優がおり、同世代には、天才といってもいいような三代目菊五郎というライバル役者もいた。彼が"名優"と呼ばれ"親玉"という称号を本当に自分のものにするためにどれほどの努力を必要としたかは言わずもがなというものであろう。
彼は名実ともに王者となったとき、同時に王者としての不安も感じたであろう。だから王者を保証してくれる能という権威="格調"を求めたのである。"歌舞伎"という自分をそのままに"能のような"という本物志向に走ったのだ。そして、本物志向に走る自分を正当化するために"歌舞伎の自分"を正当化するのである。それが『勧進帳』のラストに矛盾として現れている。
"格調の高さ"とは、このように見よう見まねで作られた"権威を秘めた父"だったのである。
その中には本当に格調の高い"格調の高さ"もあれば、もっともらしいだけの"拡張の高さ"もあった、ということなのである。

第三講了

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