旅人、鳥、魔法使い

 茜色の葦原。
 藍色の海原。
 彼が描く風景に、あの頃の私は恋をした。
 それは遥か遠くの国を望むようで。
 けれど、何時か遠くの日を懐かしむようで。
 なんだか、無性に泣きたくなる風景。
 翠色の樹海。
 黄金色の雲海。
 もしそこに居たら、何が聴こえて、何が香って、何を感じることが出来るのだろうか。
 彼の油絵具が歩む旅路に、私はついていきたくてたまらなかった。
 その傍らを飛び、肩に止まった一羽の鳥になりたかった。
 少しでも近くに。
 少しでも遠くへ。
 彼が描く風景を見る度に、私はそうして泣きたくなる。

「別れましょう」
 アトリエに座る背中へ投げかけた言葉が板張りの床へ滑り落ちるまでの間、私は小さなテーブルの上に散らばる画材を整えて重ね、持って来たオニオン・スープを置くスペースを作って、置いた。
 木彫りの椅子が二つ。
 硝子越しの陽光を麗らかに迎え入れる、一面の窓壁。
 他の壁には画材が居並ぶ棚が静かに出番を待ち、
 一面に林立する画架(イーゼル)、画架、画架。
 そして、その中心で黙々と筆を走らせる、丸く汚れた背中。
 あれから毎日、私が見ている風景。
 鳥の声は、窓の外から聴こえてくる。
 結局、私の言葉がその背に染みて戻ってきたのは、テーブルの横の椅子を引いて腰かけ、カップから立ち昇る湯気を見つめていた頃のことだった。
「スープかい」
「ええ」
 囁きとも、呟きとも、唸りともつかない言葉。
 あれから毎日、聴いている声。
「有難う」
「いいえ」
 絵具塗れの指がカップの取っ手に引っかかって、オニオン・スープを攫っていく。
 テーブルに残る絵具の跡と傷の数を、私は数える。
 風漏れのような息。
「美味い」
「そう」
 ことりとカップが戻ってくる。テーブルの傷が、また見えなくなった。
 そして木彫りの椅子をぎしりと鳴らして、また背中がこちらを向いた。
 絵具を掬う、小さな水音。
 絵筆が画布(カンバス)を走り、また旅に出る。
 不思議だった。
 一度走らせただけの絵具はただの色のついた染みなのに、重ねる度にそれが野原や木々や空に変わっていく。
 幼い頃の私には、まるで魔法のように思えたのを覚えている。
「それで」
 ふと聴こえた声に、私は数度瞬きをする。
「何故だい」
 絵筆の歩みが止まっていた。
 私は少し身体を起こして、隣の画架を見つめた。深い湖、夜と星。
 窓の外の鳥が羽搏きを鳴らすまでには、時間がかかった。
「貴方は――」
「うん」
 湖に波はなく、ひたすらに凪いでいた。
 水面にはっきりと、月を映すくらいに。
「貴方は、絵と添い遂げるべきだった」
「そうかい」
 画架にも無数の傷があった。
 架けられた絵は皆、我関せずだった。
「確かにそうかもしれない」
 夕暮れの花畑も真昼の小高い丘も朝の流れる川も、皆。
 自分がどんなに時をかけて魔法をかけられた土地なのか、知る由もない。
 囀りも、聞こえない。
 ここはアトリエだから。
 気づけば、また絵筆は足音を刻み始めていた。
 私は、空になったカップを持って立ち上がった。散って乾いた絵具が、床に点々と連なっていた。
「それで良いと思っていたんだ」
 囁きとも、呟きとも、唸りともつかない声。
 毎日、毎日聴いた声。
「君は、僕の絵にとついできたんだと」
 毎日、毎日潜った質素なオークのドアは、相変わらずの顔で私の前にぼんやり佇んでいる。
「それでも良いと、僕は思ってた」
 オークのドア。
 空のカップの底。
 絵具の散った床。
 木彫りの椅子。
 画架に止まった、一羽だけの鳥。
 彼が描く風景を見る度に、私はそれでも泣きたくなる。

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