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ツイッターのフォローを0にした件。

特に何があったというわけでもないけれど、年度末なので、自分のTwitterでフォローしている人を0にしました。

きっかけがあるとしたら先日、古書店で中島らもさんの『とほほのほ』という本を見つけたことかな、と。

黄ばんだページを開くと、泉昌之さんの(駅弁のおかずとご飯を絶妙な配分で口に運びバランスよく食べ終わることを目指す男の一人真剣勝負を描いた短編漫画)『夜行』に共感したという話や、B級映画『はきだめの悪魔』について「映画が終わった試写室は、さながら暴動寸前のドヤ街の雰囲気であった」と評し「史上最低のダメ映画」について事細かく説明するくだりに惹かれて即買いしたのでした。

内容もですが、らもさんのエッセイの間延びした心地よさと物足りなさが良くて。インターネットが普及しておらず今より不便だった頃の「ぽかーん」とした退屈な時間、例えばバス停に接近情報の電光掲示がなく紙の時刻表だけを頼りに、遅れているのかもう行ってしまったのか分からず根気よく待つしかなかった時代の間延びした退屈さ。それらをなぜか懐かしく思い出したのでした。

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少し前から自分の変化には気づいていて、今日は時間があるからドラマを見ようと思っても、一時間ものでも内容に集中できずCMの間につい席を立って何かしようとしてしまう。仕事のラフを描きながらだったらドラマやBSを見たり出来るのに、テレビを見るだけというのが出来ない。

先日、落語会に出かけた時も、最初の枕を聞いている途中で「早く古典落語を始めてもらえないものか」とそわそわしてしまって。枕も噺家さんの持ち味なのに、それも含めてゆっくり落語を楽しめない自分に心底ぎょっとした。なんでもすぐに調べて探せて買える便利な時代になり、こんなに「あてどなく待つ」根気が無くなっているのかと...

そんな私が中島らもさんの本を久しぶりに読み、少し麻痺していた感受性を取り戻せたのか、Twitterのタイムラインに疲れるようになった。今、私は20名ほどフォローしているだけなのに、プロモーションも含めRTや誰かが「いいね」した情報が毎日滝のように流れてきて、その中で溺れそうになる時があって。(100人を超えてフォローしている人のタイムラインはどうなっているんでしょうか。不思議だ...)

自分で興味を持ってフォローしていたはずでも、例えば動物専門の海外アカウントの画像や動画が、ある時から反響や人気を得るために面白おかしく珍しい姿を撮ろうと動物に無理をさせたり困らせたりしている気がしてきたり。あとは自己アピール的な、宣伝のようなツイートを目にすることも多くて、色んな過剰さに酔ってしまったのでした。

自分の側も、フォローしてくれている人に悪いなと思うこともしばしば。ただその時々に目についたことを気楽につぶやくだけで話題に一貫性がないので、たまたまつぶやいた何かのジャンルに興味を持つひとがフォローしてくださっている場合には、その後その話題を出さない(出すほどの情報、情熱を持たない)ことに申し訳なくて。

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てなわけで、心機一転とはいえ友人と親戚も解除して結構不便ですが、何かを捨てることで得られる身軽さをまずは味わいたいと思います。

SNSでは何かアクションするごとに自分アピールになってしまうのと、リアクションの面で互助会的な側面があり心強い部分はあっても、一方で違和感を覚えても距離を取りづらい面があるような気がして...ツイッターは特にそうかなと。もし匿名で「スキ」やフォロー、匿名で記事に「拍手」できるボタンなどがあったらもっと楽なのになぁってよく思います。

私はTwitterでもnoteでもフォローしていないけどよく見に行くひと、お気に入りのひと、会ってみたいなと思う人が結構います。フォローする代わりに「いいね」や「スキ」をブックマーク代わりにして見に行っているのです。

ネットの隅っこで、今後もあまり無理せずのびのび生息したいです。