君と孤独
高校生のとき、車の中で聞いたユーミンの曲の、そのフレーズが忘れられなかった。
あのときユーミンをたくさん聞きたくて、中古で安いCDをたくさん買ったり、図書館で借りたりして、どのCDにどの曲が入っているか、きちんと覚えていないものもあって、これもそのひとつだった。
けれどもこのフレーズだけは、どれほど大人になっても、晴れやかに吹き抜ける風みたいに、ときどきぶわりと、わたしの心臓を揺らしてゆく。
遠くへ行った友達に、何もできなくても、それでもいいと、なぜだか許されたような気持ちになった。手紙みたいに、何度も届けた。心の中で、あなたへ、わたしへ。
二十代のわたしを支えてくれたのは、野宮さんだった。逃げ出しそうなときに。
ハチクロの終わりの方で、はぐちゃんが怪我をしてしまったとき。あゆは、「はぐちゃんにできることなんて何もかもしれない」と落ち込む。
そんなあゆに、「そうやってみんなが彼女(はぐちゃん)を遠巻きに見るよ」と諭す。そして、「まんまと彼女は一人ぼっちってわけだ」と意地悪く言う。
何度もある、「君には何もできないかもしれない」とか、「君と僕は違いすぎる」とか、「君のいる場所に僕は至らない」という気持ちのときには、野宮さんが引き留めてくれた。「一人ぼっちってわけだ」と告げる苦さが、ぐるぐると巡る。
時々、そういう意地の悪さのような、苦さみたいなものが必要なのだと思う。甘さよりも、ずっと。
実際にわたしは、このあと野宮さんがあゆに告げた「山田さん、君は残りなさい」「友達なんだろう?」というセリフよりも、「まんまと彼女は一人ぼっちってわけだ」を思い出している。
かつてわたしは、「君にできること」を無邪気に信じていた。
今でもそのわたしが消えてしまったわけではないのだけれど、どちらかというと「君は残んなさい」と叱られて、なんとか立っているような感じでいる。
君にできることは何もないかもしれない。と思う。
実際にそうだ、と思うところまで来た。
あなたにしてもらったたくさんのことのおかげで生きているわけだから、そんなことはないだろう、と言いたい気持ちもあるけれど
それは結果的、あなたにしてもらったことが嬉しいと、わたしが勝手に救われただけで、実際は正しい救いの書なんてない。嬉しいと思えるかどうかの勝負で、本当に苦しいときには、何が嬉しいかなんてわからない。だから、できることなんてない。と諦めはする。
それと、君を諦めるのは別のことだ。
何にもできないかもしれないけれど、ひとりにさせるつもりはない。
不謹慎で結構。へらへらと笑いながら、隣にいる。
君からの電話を待っているし、わたしは道端の綺麗な花の写真を、君に贈る。
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