見出し画像

「表現の自由」とその問題提起。

表現の自由って幅が広いです。

①政治的なビラや街宣活動も表現の自由ですし、②映画や文学に対してのわいせつ性を問う裁判もありました。また、③マンガ、アニメ、AVなどの表現の自由を守る戦いもありますよね。これはそれぞれかなり特性が違うわけです。

以上大きくざっくり分けて3つありました。私的には、不良の改造制服(古い)や、刺青なども表現の自由として扱われてもいいんじゃないかと思います。

刺青がカジュアルになってきたような印象ですし、飛躍があるかもしれませんが、刺青=反社会的人物というレッテルはいかがなものかなと思います。

改造制服の問題とかも、女子学生のズボン着用と似た関係にあるかなと感じてます。自分はこういう人間なんだという主張が制服などにも表れても良いのではないかなと思います。

さて、そんなに雑多に詰め込まれた表現の自由ですが、もちろん声をあげる人はそれぞれ違う分けです。政治問題で表現の自由の声をあげる人と、エロ表現でのそれは違う可能性があります。良い悪いではありません。担い手や求められる資質が違うのではないか。

たとえば政治的な表現の自由だと、反骨精神や、既存の政治文化についての理解が必要でしょう。さもないと、「デモは必要ない」、「デモはうるさい」などの極端な考えに振れてしまう。

ならば、なぜ弱者とされる人が路上を占拠して意思表示をすることが重要なのか、きちんと説明をすることができないと表現の自由を守る戦いにはならない気がします。表現の自由とはいうものの、実は路上を車から歩行者へ取り戻す運動なのかも知れない訳です。

余談ですが、日本では消費者活動がある種の左翼的な運動になっていた時期もありましたが、もはや行き過ぎた消費者至上主義は、販売員などの労働者を幸せにしないのではないかと危惧をする声を聞いたことがありますし、実際そうでしょう。(柄谷行人がそれについて何か書いていました)

さて、また身体性が出てくる表現の自由はまた問題が変わります。例えばAV、刺青問題です。私自身はAVに関しては否定的です。なぜなら売春禁止法との整合性が取れていないからです。カメラを持っていたら、売春が合法になるロジックは流石におかしく思います。

しかし、AV、刺青問題の共通項としては、身体をどのように使うかという問題があります。身体は表現の道具として使える事実を改めて確認しないとこの問題は見えてこないのではと思います。

なぜ同じ身体を使った表現なのに、ある表現は良くて、別の表現は悪いのか、理屈を考えないとそれを受容するにしろ、批判するにしても難しいわけですね。立場を超えて相手を説得するためには、その相手に届く言葉をまずは獲得しないといけないという、当たり前なんだと思いますが、その事実を突きつけられます。

以上見てきましたように、表現の自由と一言言っても、守る側の立場や考えがかなり違う訳なので、一致するところは一致した方が権利は守りやすいですが、それと共にこの表現の自由のテーマは何か、なぜ守られないといけないのか、それを言語化しないといけないのかもしれないと思いました。それをまずはやりましょう。

長文ですが、見ていただいて有難うございます!誰かのお役に立てれば喜びです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?