なんとなく生きづらいという深刻な悩みへの現状できる回答、もしくは覚え書き

▼「誰にも本音を言えないし、インターネットくらいしかないけど、でもインターネットだからなあ」と思ってる人がいたとする。俺もそう思っていた。今もちょっと思うけど、考え方は少し変わっている。
 以前(俺の中では大体15歳から20歳くらいの期間を指します)を振り返った時に、無駄に警戒心というか攻撃性が高い割に誰かに気持ちを吐き出したくて仕方ないという厄介な人間だったから(今もそうだけど攻撃性は大分下がったらしい)、たとえ不明瞭な輪郭が画面の向こうに見え隠れしているだけでも、人の気配がする方向に何事か喚き散らすだけでそこそこ救われていた気がする。自分を今の形に歪めたのはインターネットだけど、もしもあの時期にインターネットが無かったらと思うとぞっとしてしまう。
 何が言いたいかというと、これだけインターネットが普及した現代において発信の手段に優劣なんかないのだ。感情を整理するのは大事なことだ。その「場」を必要以上に卑下するほうが、かえって精神に悪い気さえする。お前は思った事を思ったように言えばいい。それが何か大きく間違っていたら思わぬところで批判されるかもしれないけれど、その時は何に対しての批判なのか、自分と相手にどこにズレがあって、どこまで擦り合わせるのが妥当なのかを考えればいい。インターネットを隔てた反対側には案外興味本位の人間がたくさんいるし、運が良ければ理解しようと努めてくれるはずだ。

▼世の中は主観と客観でできている。客観というのは誰かが「第三者から見た視点」と想定しただけで、だから正しく言えば多数派の主観なのだが、社会とか、常識とか、そういうものがほとんど同義の存在としてここに収まる。どちらか一方が強くてもだめで、相互の均衡が保たれない限りは、ずっと悩み続けることになる。
 思春期なんてよく言うが、要は年齢が上がるにつれ、次々と押し付けられる客観の重さに耐えかねて、ならばと主観の重さ、大きさを増すべく一生懸命に空振っている状態なのではないか。空振りであっても、繰り返すうちに精神の筋肉がついてきて、気がついたら釣り合いが取れていた、みたいな。わからんけど。
 18歳くらいから、そこそこ多くの人が「自分との付き合い方がわからない」「自分は社会に受け入れられない」って言い出すのは、もしかして思春期の反動なんじゃないか。思春期の過程で主観が客観に潰されてしまって、客観が膨らみ過ぎている状態というか。だから言ってしまえば、もう一度主観を膨らませればいいのだ。じゃあどうするか、って話に戻るのだけど。
 

▼自分の気持ちや考えを吐露するならば、できるだけ詳細に、嘘偽りなく出力するほうがよい。その考えがズレていたり、出力の前段階としての入力=認知に誤りがあるのは全く問題じゃない。問題は、言語化したときに作為的な嘘を混ぜることだ。この場合、悩みは絶対に解消しないと言っても誇張にはならないと思う。自分を好く見せようとか、そんなのはお前たちの(俺たちの)嫌いな「社会でやるやつ」であって、問題解決には結びつかない。それに自分で自分を誤魔化すほど、見えない負荷は蓄積していく。
 ところでこの言語化というプロセスは意外と大事で、自分で考えを整理できるだけでなく、他人にも伝えられる可能性が高いし、何なら問題解決のための道具として使うこともできる。人間は漠然としているものや事に対してはもうどうしようもない、だめだ、となりがちだが、思考や感覚を敢えて表現しようとすると、一旦対象を具体化しなければならなくなる。そうすると、それが自分の足場になる。また、一度きちんと形にしておけば、自分と社会とのズレを比べるのにも役立つし、そこから導き出された修正案もしくは妥協案を意識し行動することで、少しずつでもズレを埋めることはできる。
 要約すると、たとえ聞き手の姿が見えようが見えまいが、形にして外に出すなら嘘はつかないこと。それと、自他の理屈を認知して行動すること。それが一番大事。

▼どうも、大事マンブラザーズバンドです。

▼は?

▼急に話は変わるけど、お前はいなくてもいい存在なんかではないし、いなくてもいいと思うならなぜそう思うのかを書き出してみればいい。あるいは人に聞かせればいい。リアクションがあれば、それを参考にしてもう一回書き直す。もしくは語り直す。もしかしたら、意外とくだらない理由だったな、となるかもしれない。
 たとえば生まれとか、環境とか、育ってくる中で曝された何らかの理不尽だとか、それを理由に自分なんかいなくてもいいと思っていたとしても関係ないと俺は思う。あんたなんか生まれてこなきゃよかった、とか、そんな事をしてなんの得になるんだ、とか、そういうのはそいつの主観であって、別の誰かの主観ではお前はなくてはならない、もしくはそう成り得る存在だってこともある。
 何より、お前は生まれた瞬間から独立したいち個体で、且つ社会的動物としての人間に生まれた以上は、存在の可否なんて誰にも決められない。そんな理屈や権利を持ってる奴は、お前自身を含めてこの世に存在しないのだ。もし自殺する権利は自分にあるとか言うなら、それはお前の勝手だし屁理屈だよねと俺は言う。俺は多分お前に興味があって、存在してもらわないとちょっと困るから。
 お前に興味を持ってる人間はお前が思ってるよりきっと多いし、お前自身もその一人にならなければ、悩みの根本的解決は無いと思う。今この瞬間から自分を肯定し続けろと言うのは無茶苦茶だが、自分と他人との距離を再計算して、そこを詰めていったときに自分がどうなるのか、せめてそこには興味をもってあげてほしい。

▼去年、尊敬していた人が亡くなった。まだ若かった。あまり詳しくは言えないが、色々あって、自分には生きてる価値がないと勝手に判断して、勝手に死んだ。
 俺から見るその人はいつも賢くて、お茶目で、人はそこそこ悪いが才能に満ち溢れていて、完璧だった。めちゃくちゃ憧れていた。ただ知り合った当時から、すごく考えが死に近いというか、自分の事を必要以上に低く見積もっているなとは思っていた。でもさすがに死ぬとは思っていなかった。
 これ以上は言えないのだが、とにかく俺はものすごく混乱したし、悲しかったし、憤っていた。なんで死んじゃったんだろう、と、朝も夜もなくその人のこと、その人と自分のことを考え続けた。
 そうやって少し時間が経ってから、俺はいつの間にか憧れだったあの人を追い抜かしていたことに気づいた。少なくともモチベーションの面で。あの人がいつかやりたいと言いつつやらずに残した事を、奇しくもあの人が亡くなる数日前にやり遂げていた。
 それはあの人に問題があったとか、俺に才能があったとかじゃなくて、ほんとに運とかその時の環境とか置かれた状況、そんな些細な違いだけだと思う。大きな違いを捻り出すとしたら、あの人は圧倒的に才能があった一方で、俺にあった根拠のない自己肯定感というか、ヤケクソ具合というか、おだてられるとすぐやっちゃうところとか、承認欲求というか、そういう青臭くてイタい部分を積極的に見せる人ではなかった。擦り切れてしまったのか、それとも何らかの理由で表に出したくなかったのかはもうわからないが、本当にそれくらいだ。
 繰り返すが、これはどっちが恵まれてるかという話なんかじゃない。どちらが良いか悪いかでもない。追い抜かしたと言ったって、それで別に関係が変わったかと言われたら変わらなかったろう。結局一時的に半歩リードしたというだけで、レース全体を見ればあの人は永遠に俺の前を走るだろうし、今でもそうだ。
 でも、その初めてのリードに気がついたおかげで、あの人を無闇に神格化したり、後を追ったりしなかった、というのはある。憧れてた人であってもちょっとした拍子に、「ある視点/瞬間においては」という条件付きであっても、追い抜けることはあるんだな。完璧なんかじゃないし、もしかしたら、ほんとにもしかすると、あの人から見たときに俺のほうがリードしていた場面もいくつかはあったのかもしれない、わからないけど、とにかくあの人も悩める人間だったのだと思って、少し落ち着いた。
 憧れる相手って、一緒にいるとたまに居心地がすごく悪くなることがある。そういう時は、こちらが勝手に劣等感を覚えていることがほとんどだ。そこで「自分はああはなれない」と諦めたり、剰え拒絶してしまうと、それからは一緒にいなくても劣等感に苛まれ続けると思う。
 やっぱりここでも、自分と相手のズレ、差を認知して行動を変えてみること、それに尽きると思う。ただ前述した社会とのズレと違って、個人とのズレは対象が非常にはっきりしているが故に、こちらから近づこうとして失敗し、ものすごく落ち込む事が多い。当たり前だ。別個体として産まれて、別々の環境や集団で育って、別々の感覚と思考を持っている。そこに加えて、様々な偶発的要素が影響する。他人になるなんてムリなのだ。
 だから社会の時と考えを変えて、「適合する」のはやめたほうがいい気がする。向こうをこちらに近づけるというか、「適応する(させる)」のがよさそう。 向こうの要素を真似できる範囲で引っ張ってきて、自己流にアレンジしていく、という感じで。ジークンドーみたいな。ジークンドーみたいなって何だよ。
 ひょっとしたらその過程で、なにか自分の取り柄だとか、偶然であっても相手にできない事をできる自分に気づけるかもしれない。そうなったら最高だよね。
 まあ少なくとも、追いかける事は無駄ではないと思う。それだけは言える。
 
 
 

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?