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無職でも自尊心を奪われないために


思わぬありがとうに出会おうとすれば、言われないであろうと思う行動もしていかなくてはいけないのっす。感謝されることだけを狙って、行動したら、(無駄と思った行動をしないと)「思わぬ」ありがとうと出会わない。世間からの冷たさからの逃げ場所を作ったら、あるいはそんな無駄と自覚していると無駄は長続きします。隠れた効用として人から無価値の無駄な行動と思っても、自ら課す場面があると意外と力になったりする?世間が自分をごみ扱いするときに、自分ダメな奴だと落ちこむときに、「無駄な領域」=「自分なりの価値観でダメでない領域」があるって支えになる。いや、外でのつらさを家族をコントロールしようとしてDVする夫とか、自分はしませんが気持ちは分からないでもないのよね。知らんけど。自分で人生を「コントロールしている感」を持てる領域、「選択」する領域は、自分の中で確固たるもので支えになる。(工夫したら無敵の人対策にもなりそうな?)

選択してないと人の都合で木の葉のように吹き飛ばされて不安になる。リアルでつらくてもどーでもいいとは言わないが、世間から無価値でも(世間からジャッジを受けない)夢中になれるものがあると一時つらさを忘れて気分転換っす。自分、役立たず路線の人だが、それでも他人の視線に押しつぶされない、自分なりの価値観を持ちたいとは思う。自己満足と悪口を言われるかもだけど、その他人の反応は無視とは違う心の栄養素です(汗)。正しさに酔うのは危険ですが、他人に迷惑をかけない領域でというか、まあなくて七癖、他人に迷惑をかけても持ちつ持たれつの範囲でです。

無駄こそが他人が真似できないオリジナルだから誇りに転嫁できます。損をとることを恐れると人生つまんないす。というか、得で選んだことは、他人の価値観を自分のものとする、自分でコントロールできないものを大事にすることです。世間からの賞賛を受ける可能性があることは悪口も言われる可能性がある。全く影響を受けない無駄なことをする領域持つことっす。僕は自分の価値観も他人の価値観も大事派です。つらくなったら、他人の価値観のすごいことで一発逆転を狙いたいけど、自己満足でも救われるんす。ビバ、語学。

そして、他人からの自尊心の調達は、早朝の散歩、空気が冷たく澄み切って、自分のちっぽさを知るというか、壮大な自然に包まれている、許されている感って、救いになるような、でも代替できます。登山を趣味としたい気持ち、ちょっとある。


finalventさんの『思想が問われるのは、「国家の消滅が必然でありその投企なら、日本国家を潰すことが自由だ」、というのが短絡だということ。私たちが、歴史の運動が何かを問いかけながら、その新しい存在(事象)を受け入れていくときに必然のあり方が見えてくる』とのツイートを見た。本人とは違う解釈になるんだろうけど、僕が思ったのは、歴史の運動は望まぬ変化か望む変化か。

私にコントロールできないことで悩むのは時間の無駄だが、コントロールできない外部環境に対し、自分がどのような態度をとるのかは選ぶことができる。負け戦の美学、好きやねん。アホな生き方の一つや二つ、引き受けたい気持ちはある。自分が生きるに必要な金銭はあったとして、何と引き換えにより豊かな生活を送るとはどういうことか。

というか、合理主義、あまり好きではないのである。合理的って、効率の良さで、自分の判断基準ではない、外のルールを自分のものとすることっす。それって外に振り回されることで、疲れないっすか?まあ、手段として、職場で残業しないためのノウハウとか、本はビジネス本系もちょくちょくは読むっすが、合理主義は手段であり生きる指針にはしたくない。

と、飼ってるナマズをジーとみる。土管の中に入ってまともに姿も見えない。泳がない。エサやりと水替えのみの労働でしかない。なんで飼っているか分からないと連れ合いに言われたっす。でも、なんつーか、ま、いっかぽいの。自分が世話を義務としたんだし、義務は果たすことで、得られる自尊心てあるよね、たぶん。合理主義なんてくそくらえっす。

感謝されることだけで人生回ってないと思ってるし、ま、いっか。自分が何かすることで、感謝されることもある、されないことがある。感謝されることだけを狙って、行動したら、「思わぬ」ありがとうと出会わない。出会おうとすれば、外れと予想される行動もしていかなくてはいけないのっす。

家族に粗大ごみ言われて、子どもは奨学金ももらわずに県外の大学出たのに感謝の念はない。それでもいいんだっぽい気持ち、共感を得られないんだろうか。いや、泣きたいは泣きたいけど、ま、いっかぽいの。生きる瀬がある。網膜に焼き付いた可愛かったころの子供がふとしたときの表情が思い出され、僕の子なんだと思えたら、ま、いっかぽいか?もしかしたら、いつか和解するときもある、その前に自分が家族に冷たくしていたらきっかけも少なくなるだろうとか?

何かワクワクすることってないっすか。理想つか。世界はつべちーので、上手くいかないのが当たり前っす。でも、たまにいいことも起こるっす。ワクワクの世界に自分が近づいたと思うとワクワクするっす。つべちー世界を否定するわけでもないけど、つべたさに押しつぶされる必然もないっす。

ま、いっかで、報われることも報われないこともある、結果はコントロールできない。でも、無駄なことをやめるのは、ワクワクした世界とのつながりを切ってつべちー世界に生きることっす。それって楽しいっすか。無駄を引き受けても、ワクワクした世界観で生きたくないっすか?そこで、一喜一憂するのも疲れるっす。憂鬱な方は無視っス。怒りにとらわれたら、人生楽しくない。上手くできたときは喜ぶけど。どうやって憂鬱な方のストレスを逃がすのか。逃がし場所は、受けれられる場所、逃げるホームベースは確保しておくことっす。

自分、自分でコントロールできる領域を持っていないと、人間、おかしくなるようにも思っている。言えば、今日の夕飯何食べよ、とワクワクする程度のことを含んでもいいと思っている。でも、趣味の領域というか、自分なりの理想を目指して、試行錯誤(コントロールして変化を)楽しむって、人からごみ扱いされたときに救いになります。

世間がごみ扱いするときに、自分ダメな奴だと落ちこむときにダメでない領域があるって支えになる。実体験です。次どうしようか考えたら、リアルの人間関係のつらさなんてどうでもよくはならないが、それでも気がそれる瞬間がある。

いや、自分、家族関係良いんで言っちゃいけないんだろうけど、でも、家族に捨てられたら、早朝の散歩、空気が冷たく澄み切って、人の気配がない、自分のちっぽさを知るというか、壮大な自然に包まれている、許されている感って、救いになるような、手持ちのカードとして持っているんだけど、切る羽目にはなりたくないのは本音だけど。

歴史の必然つか、変化で押しつぶされる側でも、誇りを持って生きていきたい感はある。もちろん生き残る努力はして、努力が叶わなかったとして自分は役立たずかもしれないけど、でも、それと、尊厳を奪われると思うのは別問題である。浸れる自分の世界を作ることを考えつつ、いや、無理かなーキモいおっさんて受け入れることってどういうもんだろ。finalventさん曰く、語学の勉強っすか。僕、なぜかインドネシア語、勉強してみたいんだよねーその前に英語だけど。まあ、ブログを書くのは10年続いた無駄なことっス☆

自分なりに判断の基準があり、3歩進んでも2歩下がるかもだけど、自分の行動で変化するモノを持つこと、変化に一喜一憂するのを楽しいと思うことっす。人生楽しめないときもあるけど、谷もなければ山もできない。苦労を楽しめる余裕を持てるように何かに祈りつつ、でも世界がどんなに冷たくても、自身の心の在り方は誰も奪うことの出来ない最後に残る自由だ。すがる自分の世界が嘘っこと思わないように、じっとブログを書き続けて自分に誇れるものに育てていこうと思う。

(今日のはペトロニウスさんにトラックバック送りたかった。こういうことかな?)

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