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虹をつかもう 第24話 ――復――

翌日は、朝からどしゃ振りだった。日課であるランニングに、出かける気がしない。その後も午前中を無為に過ごす。そして、午後になるが、やはり何もする気が起きない。
今日は、セイさんの家、行くのやめようかな……。
「定」だと、セイさんは言ったけど。
心がとてつもなく重い。すべてのことがどうでもいい。

ぼくはベッドのなかで、いろいろと思い出していた。
小学生から一緒だった。高校二年のあのクラス替えがあるまで、ぼくたちは笑って日々を過ごしていた。順に、過去を振り返る。本当の意味で思い出となった、奈々ちゃんとの日々――。

時刻は、午後二時をまわり、三時をまわった。ベッドのなかの別の時間軸では、楽しかった高校一年が終わりを告げようとする。
記憶はそのまま、今年の五月へと突入する。
下り坂を転げ落ちるようだった。
つらかったな――。

不良だらけのクラスで、必死に自分のポジションを保とうとした。努力もむなしく、攻撃の標的となり、暴力の恐怖に怯えた。学校に行くのが憂鬱で、憂鬱で、もう立ち上がれないと、何度思ったことか――。
ようやく、馬鹿なぼくは気づく。
……この感覚は、はじめてじゃない。六月のぼくはどん底だった。ついこの前のことを、なんでこんなに簡単に忘れられるんだろう。
逃げない――。
ぼくは逃げなかったから、こうして今がある。

なにを悩んでる? 
有り体の言葉にしてみれば、彼女にふられただけ、そして、怖い先輩(木原)がいるだけだ。
それって、あの日々に比べたら、ぜんぜんたいしたことなくないか?

時計を見る。三時半。力を込め、跳ね起きると、身体は軽かった。
十分後――、ぼくは外に出ていた。走るか。
雨は、止んでいた。部屋まで雨音が聞こえていたというのに、天が味方してくれているのかなあ。
気功は、運をも開くと、セイさんは言った。胡散臭いが、気持ちを鼓舞させるにはちょうどいい。

軽い。風のように走れる。町の景色が、どんどん流れゆく。
あの不思議坂も、ダッシュする。
前を歩く人影――坂を上りきる直前に追いついた。ぼくは笑顔で挨拶をすることができた。「七瀬さん!」
「雨男」立ち止まってくれた。七瀬さんも表情がやわらかい。「今日は一段と河童みたいだな」
「はは」
なんの脈絡もないのに、今、思ったことが、淀みなく口から出た。
「そういえば、七瀬さんは、木原のこと、どう思ってるんですか? 彼女は七瀬さんのことが好きですよね」
「あいか……」考える顔になる。「あいつガキだしな」
「中身がですか」
「中身はもっとガキかもな」
そのときの七瀬さんの視線は、空にあった。
ぼくも振り返る。雨上がり、坂の向こうの町の上に、大きな虹がかかっていた。
「へえ、きれいですねえ」
天からのプレゼントだ。ぼくは七瀬さんと見たこの景色が、なぜだか、ずっと忘れられないものに思えた。

さて……、やるべきことをやるかな。
「七瀬さん、ぼく先に行きます」
「うん」と言って彼は、まだ空を見ていた。

そして場面は、セイさん宅の、二階の部屋。
何事もなかったかのように木原に話しかけようと思っていたのだが、第一声はむこう。
「あんた、ななといたでしょ!」
「はう」
この女、双眼鏡でも使ってのぞいてんのか! こいつの炎は、ぜったい、嫉妬の炎だ。
「今日から、新しいメニュー、二つ追加するから」
このガキっ! と、ぼくは心の中で言った。

その日の黄昏どき、ぼくの心は、なかなか萎えたものがあった。
湯呑をテーブルに、ごんと置く。
「水は火をこくすって本当ですかああ」
「なんじゃ、酔っぱらっとんの?」
「だって、勝てる気がしないんですもん」
「うん、ワシもそう思う」
「そう思うじゃないですよ。ぼくにも武術気功おしえてくださいよ」
「おまえ、まだぜんぜん気を使いこなせてないじゃん。というか、なんでその話、知っとんの? どっちかというと、秘密の部類に入るんじゃけど」
「木原さんは、どうも、根本的にぼくとは違うような……」
木生火のデモンストレーションを思い出す。手品と超能力の差。
「まだ修行をはじめて2か月だからかもしれませんが」さらに加える。「自分の場合、スプーンから水が出るから何? ってのもありますけど」
最後の言葉を無視して、セイさんが言う。
「いや、愛は、最初からすでにあの状態じゃったよ」
「そうなんですか!」
「元(もと)の気が、生まれつき強いんじゃ。ワシよりも、ぜんぜん上」
セイさんよりも上!
「ごくまれにそういう人間がおる。ななも愛もそのタイプの人間で、あの二人は特別なんじゃよ」
「なーんだ」ぼくは両手をうしろにつく。「才能ってやつですか。うらやましい」
「いやいや、そういう人間は不幸じゃぞ」
え? セイさんに首を向ける。
真面目な顔だった。
「愛がここに来たのは、中学生のときじゃった」いつになく真剣な語り口に、ぼくは、ごくっと唾を飲んだ。「すでに〇カップじゃった」唾を飲んだ。
「身の回りのものを発火させてしまう少女って、よく聞くじゃろ」
「いや、よくは聞かないですね……」
「普通は、年をとると、元の気が減ったり、邪気がまじったりして落ち着いてくるんじゃが、資質によっては、力をいっそう強くしてしまうことがあるんじゃ。まあ、本人は何が起きてるかわからんじゃろうな」
「…………」
ぼくにも思い当たる節がある。シャープペン。昔はそうでもなかったのに、中学の頃から、握っているとなぜか水滴がつく。てっきり、指先から汗がしたたっているのだと思っていた。
しょうもない能力で、よかったのか……。
「野犬のようじゃったな。自分をぜんぜん制御できておらんかった」
ぼくに切れたときの木原を思い出す。
その名残なのか。
木原、苦労したんだな……。

「ななも同じじゃ。気の色が見えるなんて、鍛錬した人間でもそうおらんからのう。ワシにしたって、ぼんやり見えるくらいじゃ。しかもあいつは、炎のようだと表現しておった」
人知れない苦悩。
七瀬さんの、仙人然とした振舞いを思い出した。
ひょっとして、七瀬さんが助けてくれたのは、ぼくを同種の人間だと認めたから――?
あのとき、握りしめた金属の棒からは、いつも以上に多くの水がしたたっていた。
翳りつつある庭先に、目をやる。
七瀬さんは、ぼくのことを仲間だと言ってくれた。
 
同じ星を共有した四人の人間が、今、この屋根の下にいる。

木原愛。武術気功を得意とし、木生火の性質を持った超攻撃タイプ。
七瀬隆志。ひとが放つ気の色を見ることのできる超感知能力の持ち主。特殊タイプ。
謎の老人、セイウチ・ウォルラス。天賦の才は二人に負けると言いながらもなんかすごそう。巨匠タイプ。
期待の新人、三田隆。とにかく〈愛嬌〉で勝負。ここじゃ、お笑いが通じないけどな(笑)。能力は、金生水らしい。用途不明タイプ。

――って、ぼくはここにいていいのだろうか。

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