虹をつかもう 第27話 ――虹――(最終話)
星のない闇の下を、ぼくはふたたび走る。
上空には、夕刻見たあの重たい雲が、まだ敷き詰まっているのだろうか。
今は下り坂だ。ペースがいい。並走する彼らに、状況をなるべく正確に説明する。本当の勝負は、最後の十分だろう。ぼくも戦う。
セイさんの自転車のブレーキが、キーキーとやかましかったが、伝えられることは伝えたと思う。特に、ネズミが身につけた硬気功、鉄男の状態と、彼の台詞のニュアンス。
それを受けて七瀬さんはこう言った。
ネズミの気が常人の域を超えて大きくなっていた。我流でも、硬気功への応用は可能ではないか、と。
鉄男とネズミ。おそらく彼ら二人とも、セイさんの言うところの、生まれつき元の気が大きく、意識せず能力を強化してしまう特異なタイプ。そのバロメーターともいえる爆弾の威力が示すように、急激に力を増大させている。
セイさんはそういう人間の多くは不幸だとも言った。彼らはどうなのだろうか――。実際のところはわからないが、七瀬さん、木原とは間違いなく対極の位置にいる。
力に溺れ、自分の快楽ために利用し、他人を巻き込んでいいはずがない。
ネズミは、鉄男との出会いを、縁だと言った。
ならば、ぼくの縁は――この仲間たちだ。
ちょっと誇らしい。ぼくはいるべくしてここにいる。
今度は息が切れていない。走るペースをうまくキープできた。
足を止めることなく、学内に突入。残り十分を切っている。九分半。
道の途中で決めた作戦。
ネズミのいる柔道場には、少なくともリミット5分前までに七瀬さんが向かう。木原は、すぐ技術室に向かうと言う。彼女は、鉄男という標的しか見えていないのだと思う。そちらは、リミットに合わせる必要はないのだが、ぼくは、鉄男の含みを持たせた、あの笑いが気になっていた。
「技術室ってどこ」走りながら、木原が訊いた。
「教室とは別の棟です。一階の奥」
「柔道場から近いのか」七瀬さん。
考えたこともなかった。「柔道場は、学校の隅に独立してあるんですけど……、ええ、位置は近いと思います。けど、技術室には、正面玄関から入らないと」
「窓を使えば」
たしか、廊下の窓から柔道場が見えた。「それなら、50メートルくらいだと思います」
「俺も手伝うか?」七瀬さんが木原に訊く。おそらくは木原のことを心配して。「技術室の鉄男をさっさと倒してから、ネズミを倒しにいくって手もある」
その心配は正しい。はたして今の鉄男に、木原が通じるか。
二ヶ月前のバトルも、木原の優勢に見えてはいたが、ダメージらしいダメージはほとんど与えられていなかった。
直後、しかしと考え直す。相手はおそろしくタフ。七瀬さんが加わったとしても、きっと長丁場になる。すると今度は、肝心のリミットに間に合わなくなるのでは……。
「いい。ななは、ネズミをぶっ倒して」
「じゃあ、じじい。あいについて」大きめの声。
自転車をキーキーいわせているセイさんは、後ろから「ほいほい」と答えた。
「ぼくはどっちに向かえば?」
どちらでもいい、と言っているような間がある……。
「攻撃タイプではないな」と七瀬さん。消去法で来た。
「どっちかというと、爆弾処理班じゃないの?」木原が言うと、七瀬さんは、「いざとなれば、モノに触って、起爆回路をショートできるかもしれないしな。電化製品とか水で壊れるし」と思いつきを口にした。
「それ、爆弾を直に触るってことですか!」
「できる?」
「……やります」
戦うと決めたばかりだ。観念する。雨男、命をかけます。
「じゃあ、俺と雨男、じじいと木原に別れよう」
「しかし鉄男が、あえて技術室ってのは、どういうことでしょうね」ふと思いついて口にする。
「技術室ってどういうとこ?」
この人たちは、ほんと、自分の学校のことを知らないな……。
「美術の授業で、木工細工をつくるのに一度使ったことがあるんですけど。たしか、電動の糸のこぎりがあったり、バーナーがあったり。スペースをとって作業できるような、大きな木の机が並んでいたと思います」
「大きな木の机ねえ。あえてそういう環境を選んだってことか……」
木生火の能力。木原のアドバンテージだ。
「やつら、見抜いているんでしょうか」
「わからん」
「馬鹿だから大丈夫」と木原。
とても嫌な予感がする。先日やつらに渡したリュックのことを思い出した。こちらが、おがくずを使うことはばれている。
――そういうわけで、ぼくは七瀬さんと一緒に走る。
校内に入り、木原組とすぐに分かれ、右斜めへと突っ切る。
離れの柔道場を目指して。
風が強くなってきた。草を踏む音と、風の音が混じる。
足元が暗い。ぽつぽつと外灯ランプが灯るのみ。
進む先に、ここが戦いの場だと主張するように、ひときわ大きな明かりが見えた。柔道場だ。扉は開いているようだ。
左側にも、窓から明かりがこぼれているのが見えた。技術室だろう。思ったよりも手前だった。その明かりは、すぐに木々で遮られる。
柔道場が近づき、その奥が見えたとき。
唖然とした。
ネズミじゃない。鉄男……。
やられた、と思うと同時に、悔しいことに、その場と鉄男がこれ以上ないくらいしっくりきていた。柔道場を丸ごと使うにふさわしいスケール感。
「七瀬さん!」
相手の策略に気づいているだろう七瀬さんは、走る速度を緩めない。
「俺はこのままいく。雨男はむこうに合流してくれ」
「えっ、でも」
「爆弾はあっちだ」
「はい」
ぼくは直角に左に折れる。全速力で、これ以上ないくらいに走る。正面玄関まで戻っていたら、とてもじゃないが間に合わない。
目指すのは、明かりの漏れていた場所。そこから少し、玄関側に引き返す。
技術室は一階の突き当たりだ。廊下の、技術室に一番近い窓に突進する。
ぼくが、窓をぶち破れるわけもなく、どんどん叩いた。素晴らしいタイミング、木原組がちょうどやってきたところだった。
木原に開けてもらい、窓枠から身体ごと落下するようにして合流した。
現在地は、技術室のドアのすぐ手前。
「鉄男は向こう、柔道場です!」
「は? ここは」
「おそらく、ネズミ」
「ドアに爆弾あるんじゃね」
セイさんのひと言に、ぼくらは後ずさった。
ガラっとドアが開く。
「ぎゃあ」ぼくは尻もちをついた。
「さっさと来いよ。爆弾は使わねえって言ってるだろ」声が遠い。
木原、セイさんにつづき、部屋に入る。強烈な木の匂いがした。
奥にネズミが、柔道場のときと同じの姿勢で、教師用の机に腰かけている。ドアを開けたのは急上昇野郎だとすぐに分かった。覇気がない。その表情は、すべてをあきらめているようだった。出世競争のなれの果て。社長のお考えにはついていけません。退職寸前の失墜野郎だ。
ここは、通常の教室よりも縦に長い。向かい合って六人が作業できる大きな机が、二列に並んでいる。天井からぶらさがった、細長い電灯の明かりは、弱々しく、青白かった。
匂いの正体はすぐに分かる。入り口付近を除き、床と机の上、辺り一面に、おが屑がばらまかれていた。
「よお、待ってたぜ。あと4分半な」
「どういうことだ」ぼくはかすれ気味に声を絞る。
「こういうことだよ。七瀬は、光田さんにやってもらう。そのほうが確実だしな。俺はむかつくやつがぶっ殺されれば、それでいんだよ」
木原が、前に出る。怒りを爆発させるには充分な台詞だ。
「待った、あい」セイさんが制する。「燃える、燃える」
「ああ、言い忘れてた。机には爆弾にも使ってる固体の爆破物を仕込んでいる。引火させないようにな。もちろん俺は安全圏だけど。威力は、そうだな、至近距離だと腕の一本とか飛ぶんじゃないか。ひゃっはっは」
「約束が違う。バトルに爆弾は使わないって約束だ」
「違わねえよ。爆弾ってのは、起爆装置があるから爆弾だろ。この部屋のものはただの固体物だ」
「馬鹿のくせに」木原が噛みつく。
表情が鬼神のようだ。
「愛、おまえはだめじゃ」
セイさんが、ぼくのほうを向く。「雨男、あいを落ち着かせるの手伝え」
「え」
「一発ギャクでええから」
「なんでこんなときに」
「ワシも多少は気の形が見える。あいの気がこれ以上、荒れたら危険じゃ。引火する」
「ひゃっはっは」
こいつの笑い声だけでいらつく。最悪の相性だ。
対戦相手を逆にすると、こうも分が悪くなるなんて。
柔道場の七瀬さんを思った。もう鉄男とぶつかっている。相手の気が見えるとはいえ、無事で済むとは思えない。鉄男が相手ではカウンター攻撃も効くかどうか……。
「おまえ、馬鹿って言ったか。能力が読まれてるくせにな。おまえの『気』が、『木』を引火させるんだろ。ダジャレみたいな奴だな」
くだらない。
が――、
あっはっは、と壊れたように、失墜野郎が笑い出した。そうとう精神がいっているらしい。
「ふー、ふー」木原が深呼吸しだした。
このコンビ、木原をいらつかせるという意味では最強だ。
「俺の能力と似てるよな。理屈は分かんねえけど、なんか、昔のダチがつくった起爆回路が反応してくれるんだよ。お・そ・ろ・い」
「ふー、ふー」
木原は、木生火が使えないどころか、動くことさえできず、自らが起爆装置と化している。
「やばい、雨男、落ち着かせるんじゃ」
一発ギャグは苦手だっていうのに。「あれでいいですか」
ポケットには、金生水のための小さなスプーンが入っている。それを使い、たまにポケットティッシュをウェット・ティッシュに変えている。
ぼくを合格に導いてくれた渾身のギャグ。
スプーンを取り出す。「体温計!」脇に挟んだ。
「あっはっは」失墜野郎だ。おまえが笑うんかい!
「おまえ、本当に怒りっぽいよな。俺たちの間でなんて呼ばれてるか知ってるか」
「聞くんじゃない、愛!」
「欲求不満女だぜ。ひゃっはー」
渾身の一撃――。
ネズミ、おまえは最強の相手だよ。ぼくはこの男に敬意さえ覚えた。
「はっ、はっ、はっ」木原の呼吸が、どうしようもなく荒い。
「愛、よう聞け。昔、中国のある村におじいさんとおばあさんがおってな」
あかん、師匠もいっぱいいっぱいだ。
「爺さん、あんたがやるかい? それどころじゃないようだけどな」
セイさんが、小話のあいだに、口早に言う。「いや、ワシ、戦闘タイプじゃないんで」
「張り合いがねえな。もう2分切ってるんだぜ」
ぼくは時計に目をやる。1分50秒。
「時間は厳守だ。1―7組に、ターゲットの二人を縛ってある。そこに開いてる窓があるだろ」
ぼくたちから見て左側、ネズミの真横の方向の窓がひとつ開いていた。
「あの向こう側にある、1―7の教室の窓も開いている。俺の気がよく届くように、だ」ネズミは右腕をその方向に伸ばした。拳は握ったまま。「信じるも信じないもお前らの自由だがな」
それが事実なら、ここからの距離は、中庭の幅と、もう少しということになる。ネズミの射程距離が、動物爆破予告のときから、さらに伸びているとしたら――。
失墜野郎が急に笑い出した。精神のねじがふっ飛んだような笑い。
これは、本当だ。
「雨男、おまえしかおらん。あいつ、ぶったおせ。もう、水の能力とか関係ないけどな」
「ええ」
「ななは厳しい!」
その言葉に絶望がよぎる。
七瀬さんに限らない。あんな化け物を倒せる人間など、果たして存在するのか。
だけど、どこかに、もしかしたらと期待があった。
師であるセイさんの言葉は、その最後の希望をも吹き消した。
これまでぼくを助けてくれた七瀬さんはいない。木原は動けない。
ぼくがやるしかない。どうする?
それも失敗は許されないのだ。
「あと、30秒だぜ」
「うわあ」
ぼくは突進した。
――が、狙うのは、ネズミじゃない。
やつの強さはこの目で見ている。ぼくではどうあがいても勝てない。だが、あの硬気功が付け焼き刃だということは分かる。木原の敵じゃない。
ぼくのイメージはこうだ。
突っ込むと見せかけて、手前で曲がり、右側の窓に向かう。
ちょうど左側の開いている窓と対になる位置の窓。そこを開ける。外は風がかなり強かった。上手くいけば、風が通って、木の粉を吹き流してくれるかもしれない。少なくとも、驚いたネズミに隙ができる。
それしか、残された勝機はない。
最前列の、直前まで来た。
ネズミがぼくの動きに合わせ、机から飛び降りる体勢をとる。
ここだ。右へ飛ぶため、左足で床を蹴る。
直後、平衡感覚を失う。
身体が浮いた。
床へと、豪快に身を打ち付け、おが屑で足を滑らせたのだと分かる。
ネズミが爆笑する。
それは獣の雄叫びのように響き渡る。
泣きそうなくらい情けない。自分はどこまで役立たずなのだろう……。
痛みに耐え、必死に、目的のポイントへと机の間を這う。大丈夫、捻ってない。幸運と言うべきか、それくらい綺麗にすっ転んでいた。
ネズミの馬鹿笑いが収まらない。部屋にこだまするそれはまるで、悪魔の歌声のようだった。
ぼくは作業机の端あたりまで這った。机の下に隠れる形になったことが幸いした。
もう少しだ。立てる。最後の力を振り絞り、窓際へ。
時間は? 確認する暇はない。きっと、あと十秒ほど。
最後の賭け。
この身が砕けてもいい。すべての力を振り絞る。
ぼくは飛び、窓の鍵に指が届いた。「なんだこれ?」
錆がこびりついているのか、回転式の鍵が固い。しかも金属に触れて指から水が出る。こんなときに……。ぼくの能力は役に立つどころか邪魔じゃないか。
ぼくは、あきらめなかった。垂直に立ったレバーに、がっちりと指を巻き付けた。
この指が折れてもいい。爪がはがれてもいい。
風よ、吹け。
ガリっと鈍い音と共にレバーが下りる。渾身の力で、窓を引いた。
ぼくはそのまま後ろに倒れる。この瞬間、神経が身体の回線を遮断したかのように、痛みを感じなかった。
人事を尽くして天命を待つ。そんな言葉が思い浮かぶ。
神様。
風は――、吹かなかった。
コンマ数秒後に飛び込んできた疾風。
それは、風ではなかった。
「ナイス」
七瀬さん?
ぼくは肘を立て、半身を起こした。
形のはっきりしない濃紺は、外から闇夜が流れ込んできたようだった。
速度を緩めず、加速して飛んだ。一瞬でネズミの目前に迫る。
笑い顔のまま固まった、ネズミの顔。
「待たせたな」
それをぶん殴った。真っ直ぐ、その横っ面を打ち抜いた。
人間が、きれいに吹っ飛ぶ。
身体が宙を舞い、浅い角度で床に衝突する。
それから、おが屑に乗ってすーっと流れ、頭部が壁にゴンと当たって、止まった。
「弱いな、こいつ」
静止した闇夜。
視点が定まる。紛れもない七瀬さんだった。
「ひゃっはっは」
ネズミの思念の残骸のように、失墜野郎が笑う。
木原がゆっくりと近づく。
「うるさい」顔面を蹴った。人形は崩れ落ち、静寂が訪れる。
数秒のうちの終焉劇。
「七瀬さん……」
ぼくは、名前を呼ぶことしかできなかった。
七瀬さんがこちらを見る。小さく微笑み、そして、「見込んだとおり」。
あとで考えたときに、褒め言葉と捉えられる言葉を、加えた。
「やれやれ、終わったのう。みんな、ようやった」
何もしてないはずのセイさんが、ぽんぽんと膝を払いながら言う。
「こいつ、どうする」七瀬さんが、うつ伏せのネズミを指指す。「一応、気の色はだいぶ変わった。この感じだと数時間は持つんじゃないか」
「気の色もなにも、完全に意識がないですよ。というか、生きてますか」
「ああ、加減したんだが、勢いでつい」
そうだ、鉄男はどうなった?
「わたしがぶっ飛ばしたかったのに」木原が、仕留めた獲物を確認するように、ネズミのところに歩み寄る。
ぼくはセイさんのそばに行く。「いったい、どうなってるんですか?」
「ななは生まれつき、他人のオーラが見えるくらい、強い気の持ち主じゃ。強い、強いなんて調子に乗っとる奴なんかとはレベルが違うわい。ワシの下に長年いて、武術気功を学んでないわけがないじゃろう」
倒したのか、あの化け物を……。
思わず七瀬さんを見る。
細い手首に、細い足首。ちょっと想像がつかない。
「でも、さっき、七瀬さんは厳しいって……」
「鉄男に勝てるかが問題じゃないて。どれくらいで倒せるかが問題だったんじゃ。こりゃ、ほとんど一撃で決めたな」
「ネズミ、生きている」木原の声。
「悪人は長生きするって本当だな」七瀬さんが言った。
「死んでたら困ります」とぼくの心の声。
「そんじゃ、行くか」セイさんが言った。「こいつは、しばらく起きんじゃろ」
「え、でも……」奈々ちゃんとその彼氏を保護しなくていいのだろうか。
「もう警察がくる」
こともなげにセイさんが言う。
「え」
「パトカーが何台もくるよ」
いつ連絡をとったのだろう……?
「相田さんですか」
「まーくんも来るし、けっこう怖い人もくるよ。会いたくないじゃろ」
ぼくがこくこくうなずくと、ワシもじゃ、と笑った。
それから、「さて、ワシもさっさと仕事するかのう」
仕事?
その言葉に、七瀬さんが神妙そうにうなずいた。木原もこちらを静かに見つめる。
「雨男、案内せい」
「どこですか」
「光田満氏」
もうひとつの決戦場、柔道場では、大男が壁際に大の字になって、仰向けに倒れていた。それは、ネズミとは比べものにならない巨体だった。なぜだか、ぼくは巨大な昆虫の姿を連想した。
いったいどれだけ強力な打撃が加わったのだろう……。想像もつかない。出血もなく、見た目には眠っているだけに見える。
ぼくら三人が見守るなか、セイさんがゆっくりと近づいてゆく。
七瀬さんも木原もただその様子を見ている。ぼくも従った。セイさんは鉄男のそばにかがむと、そっと彼の胸に手を当てた。
突如、不安になる。
鉄男は、本当に意識がないのだろうか? 血色のいい顔、筋骨隆々とした肉体。身体は闘志を失っているようにとても見えない。
もう、回復しているんじゃないのか。そう思ったとき――、
鉄男が突然目を開けた。
セイさんの腕をつかむ。
「うおおおおおおおおおお」
野獣が吼えた。
やられる。「セイさん!」
目覚めた野獣は、目の前の敵を認識する。それは七十を過ぎた小柄の老人。が、動きが止まる。
老人の、目が光った。
「君、人を殺したね?」
その手はしっかりとやつの胸に上にある。
鉄男が目を見開いた。
それは時間にして、1秒だろうか、2秒だろうか。
野獣は、今度こそ本当の眠りに落ちたかのように、しおれていった。
先ほどとは明らかに違う。筋が弛緩する、表情から力が消える。そうしてその身体はひと周りもふた周りも小さくなったかのようだった。
「気を止めたんだ」
七瀬さんが言った。少し、寂しそうに。
本当の終焉を告げるひとことだった。
爆弾事件、暴力事件、過去の殺人事件、そして、光田満という人生の――。
セイさんから、ふたたび簡単な説明があった。
今夜は、警察のチームがくる。体制はすでに整っている。事前に話はついており、すべては取り決めに従って処理されるとのこと。来るべき今日にむけて、アレンジがなされていたようだ。
ぼくには想像もつかないような、雲の上の世界……。
いつでもどこかに理解の及ばない力が存在する。世の中とはきっとそういうものなのだろう。
セイさんが、解散を告げた。
そのあとのこと――、
セイさんの雰囲気は、黒いスーツを着たあの晩の人のようだった。それでもぼくは黙ってついていく。別世界のセイさんに。
「つかれたのう。表に車を待たせてある。送っていこう」
「はい」
ぼくは辺りを見渡す。「七瀬さんと木原さんは?」
「愛は、ななと歩いて帰りたいんじゃないかのう。邪魔するのも野暮じゃろ」
「そうですね」
表は、風がまた強くなっていた。ぽつぽつと、雨も降り出した。
「あめおとこ」と、ぼくを指して言う、木原の顔が思い浮かんだ。
なぜだか、今回はちょっぴり可愛らしく。
セイさんに続き、校門前に停車していた黒塗りの車に乗り込んだ。
ドライバーの顔は見えない。車は無言で走り出す。
無口なセイさんにぼくは話しかけた。
「気を止めたって、七瀬さんが……」
「正確には、極限まで小さくしたんじゃ」
「なんだか七瀬さん、寂しそうでした」
「うむ、15年近く前のことじゃったかな……」セイさんがぽつぽつとしゃべりだす。「君くらいの年の若者が、施設を転々としておった……。ある気功師の紹介とやらで、ワシのところに来たんじゃ。そいつはワシに『気を、止めてください』と言う。どこで、そんな話が広まったんじゃか……。ワシは断った。気とは、生命エネルギーのこと。生命エネルギーを止める、あるいは、限りなくゼロにするというのは、死ぬのと同然。まったく見ておれんかった。ワシはもうひとつの道をすすめたよ」
「え」
「あれだけ元の気が強いやつは、そうおらん。ワシにしたって、驚かされることばかりじゃった」
「その人って……」
「気の世界は深いのお」
そう言ってセイさんは、ぼくの知るセイさんの顔で、にかっと笑った。
ガラスについた水滴に、町の光が滲む。
その光を見てぼくは、あの日の虹を思い出していた。
あの日七瀬さんは、坂の上の虹を、虹のままで見ていたんだろうか。
「ちなみに、ななは、君のことを『勇気のあるやつ』と言ったんじゃ。だからワシも興味を持った」
セイさんは、いつになくシリアスだった。
なんで、今そんなことを言うんだろう……。
視界がにじむ。ぼくは答えることができない。
彼らのことをもっと知りたい。坂の多い町に揺られながら、そう思った。
(了)
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