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虹をつかもう ――色――

プロローグ

幼い頃、それは普通のことだと思っていた。
人のまわり、草木のまわり、そして、家具や電化製品のまわり、すべての物の周囲には、ぼんやりと「色」が浮かび上がっていた。

それらは、とても自然な様子で空気に滲む。両親に買ってもらった色鉛筆のケースの中の色があった。
「これは赤……、黄色でしょ、これはね、緑色……」

だけど、物心がついてしばらくして、ぼくはそれを口にしなくなっていた。
言ったところで、否定されてしまうから。両親から、先生から、友達から。時には、気味悪がられることもあったと思う。

幼いぼくは、ごく自然に、その処し方を学んでいた。黙ってさえすればいい。言う必要はないんだ。物のまわりに色が見えるからといって、日常生活に差し障りがあるわけでもない。

ぼくは問題なく、小学校に上がる。
授業中の暇なときに、みんなが放つ色を観察して、ひとり楽しんだ。

「色」は、だいたい何層かになっている。基本となる色はひとつだが、中心から外側に行くに従って、多くの場合、違った色になる。同系色の場合もあれば、別の色相であることもある。

さらに、ぼんやりと広がった色の輪郭は、丸みがあったり、やや角ばっていたりと、はっきりとした図形で言えるわけではないが、これもそれぞれ特徴がある。色と形を組み合わせれば、それこそ指紋のようにひとりひとりが違う。

他人には見えないものがぼくに見えるということに、ときとして、ちょっとした優越感を覚えた。教室のぼくはひとりで、まるでぼんやり空を見るように、その景色を楽しんだ。それこそ、雨上がりの空にかかる、虹を眺めるように。

そう、あの頃の色たちは、虹に、たしかに似ていた。

子どもの頃はみな、空に虹を見つけると、歓声を上げて喜んだだろう。ぼくも同じ。友達と、一緒になって喜んだ。そして、そのときのぼくは、皆に喜ばれるそれが、普段も見えているだけなのだと、安心することができた。

陰りが出てきたのは、中学生に上がってからだった。みんな身体的に、なにがしかの急激な変化を経験する。背丈なんて、骨を軋ませながら伸びることがある。誰だって自分の急激な変化に、戸惑うだろう。

でもそれは、自分ひとりに特化した問題じゃない。クラスメイトから、そして広くは世間から、充分に許容されるものだ。そこに多少、特殊な問題を含んでいたとしても、相談できるだれかはいる。しかし、

かつて虹だったもの。
色が、燃えさかった――。

赤の、青の、紫の炎だ。

教室に人間が三十人いれば、その色で、空間が埋め尽くされる。炎に包まれた人間たち。視界が塞がれる。

炎のなかの誰かが、ぼくに話しかける。こわごわと応じる。かつての明るかったぼくはもういない。その人は笑顔だ。なのに、炎が形を変える。この人は、いま少し怒った。ぼくには分かる。炎を見る。どうか、この人の機嫌がなおりますように。

その人が言った。「おまえ、どこ見て話てんだ? 気持ちわりい」
そして去った。ひとり、またひとり。

人がまとう、炎のようなものは、ぼくが成長するほど、勢いを増していった。それは、ぼくの変化によるものなのだ、ということは見当がついた。

どうなってるんだ? ぼくは病気なのか? でもそんな話、どこを調べたって、載っていない。それにこの色は、今になって見えたわけじゃない。

誰に相談すればいい? いや、こんなの、誰に相談したところで、分かってもらえるはずがない。それくらいわかる。精神病院に連れて行かれて、それでぼくは、ぼくの人生は、終わるんじゃないのか。

誰もぼくの言うことは理解できない。話せば、アタマのおかしい人にされる。いや実際に、ぼくは狂っているのかもしれない。この頃、手が震えるんだよ。動悸もする。もしかしたら、自分が見えていると思っているこの色は、幻覚なのかもしれない。

だとしたら、統合失調症? 図書館で調べられるものは、可能な限り調べた。わからない――。

青春の入り口にぼくを待っていたものは、孤独だった。

誰からも理解されることのない孤独。ぼくは他人とは違う。誇張やたとえ話じゃなく、世界に独り。本当に独りなんだよ。
独りきり。このことが、こんなにも恐ろしいことだったなんて。

虹なんかじゃない。ぼくの目に映るものは、闇だ。暗闇だ。
怖い。怖い。怖い。

朝、起きて、すべてが嘘だったらいいのにと思う。
きっと、そんな色なんてないんだよ。世界はただ、世界なんだ。
眠れない。悪夢にうなされる。そして変わらない朝がくる。

悪夢の次に悪夢がくる。そんなの変だよ、だって――、
終わらないじゃない?

助けて。助けて。助けて。だれでもいい。だれでもいいから、ぼくを助けてよ。
孤独。孤独。孤独。孤独。孤独。孤独――――――――――――――――。ぼくは壊れた。




連日つづく心地よい快晴とは裏腹に、ぼくの学園生活には翳りが見える。
都内、公立高校の二年生。ぼくは五月三日に誕生日を迎えた。

その後、間もなくして連休が明ける。その頃、混沌としていた教室の空気は、ほぼ固まってしまったように思う。

それはむずかしい話ではなく、たとえば、授業の間の休み時間、教室では、誰がどこに集まるのかが固定された、といったもの。ただし、その意味は大きい。すなわち、教室内の、グループ分け、棲み分け、格付け、役割の分担が決定されたということなのだから。

ぼくは教室の一番後列、ほぼ真ん中、全体を俯瞰できるポジションに座っている。たまたまだ。仲のいいやつらで、勝手に席替えをした結果、余った場所がここだっただけ。

休み時間、ぼくはどこへ行くでもなく自席にいて、かといって行儀正しく教科書を開くわけでもなく、すこし姿勢を崩し、漫画雑誌のページをめくっている。それが自分の置かれた状況を考えれば、もっともふさわしいポーズに思えた。

人の近づく気配がする。がさつな動き。特徴のある荒い鼻息。そいつは藤沢だとすぐに見当がつくが、顔は上げない。なぜなら、ここで下手に媚びるわけにはいけない。

横にきた。
「今日のあれ、どうよ」
やけに耳につく声。

今日のあれ、どうよ、とは、後はおまえが足して考えろと、言外に命令の言葉を含んだ、上からの言い方。雑誌に目を落とすぼくの真横に立ち、至極漠然と訊くこの男は、クラス内で三番手に位置する権力者だ。

これから、彼のことを、「スリー」と呼ぶことがあるかもしれない。ぼくはクラス内の序列に従って(そのランキングは、ぼくが勝手につけた)、ワン、ツー、スリー、あるいは十番、十一番と、クラスメイトのことを呼んでいる。もちろん心の中で。

「俺は、嫌いじゃなかったけどね」
まだ顔は上げず、ぶっきらぼうに答える。
あれ、とは週刊誌のなかの、一話完結型のギャグ漫画のこと。藤沢のお気に入りだ。もう少し間をためる必要がある。頁をめくる。

図体がでかい。なんだ、この無駄な威圧感は? 藤沢は、クラスの権力闘争に必要な各能力値を数値化した、ぼく独自のレーダーチャートで表すなら、〈腕力〉だけが飛び抜けている。

〈腕力〉は、もっとも分かりやすい項目で、相手と直接的な殴り合いになったときの喧嘩の強さを示す。よってそれは握力に限らない。正確には、本気の殴り合いなど滅多に起こるわけがなく、あくまでイメージではあるのだが。

「また、頼む」おっさんのような声だ。
中学時代は柔道でならしたらしく、体格がいい。今はそれが何にも生かされていない。
タイミングを見計らい、ぼくは精一杯、威勢を張って答える。
「次の休み時間に渡すわ」

こちらが内心びくびくだなんてこと、決して表に出してはいけない。言い換えるなら、奴らにとってオモチャに見えてはいけない。ばれれば、からかい甲斐のあるオモチャ、つまりいじめの標的になる。あのビリーのように。
雑誌に持つ手に、つい力がはいる。

「お」だか、「あ」だか、濁った声を出し、藤沢は、クラスの実質的な支配権を握る、ワンとツー率いる一団のなかに戻っていった。その瞬間、いくつかの視線がこちらに絡みつくのが分かる。

何の脈絡もなく、ワンとツーが、藤沢のことを「魚屋ーー」と呼んでからかうのが聞こえた。同じ集団にいる、五番と六番は、スリーのことをそうは呼ばない。

この集団は騒がしい。始終、大きな音を出す。クラスの女子は、すっかり怯えてしまっている。

次の休み時間までになんて、読めるわけがないだろう……。結局、半分は家の近所のコンビニで立ち読みをすることになる。しかし、この一連のやりとりは、ぼくにとって死活問題とも言えるものだ。

あくまで藤沢と良好な関係を保ち、さらにはそれを周囲にアピールする必要がある。よって、このギャグ漫画の連載が打ち切りにならないかとドキドキもしている。

藤沢。大きな顔をしている割に、目鼻は小さく、そこが魚――魚屋というよりは、魚そのものだ――のように見える理由かもしれない。道着姿がしっくりくる、どっしりした体型のためか、三十代のような容貌をしている。坊主頭に近い短髪には、なぜか未だに柔道部の面影が残っており、その雰囲気は純朴と言えなくもない。

なんだか、こいつのことはスリーと呼びたくない。ひとことで言えば、筋肉バカだ。やり方次第では、ナンバーワンにだってなれるくせに、頭が悪いというか、度胸がないというか。

ぼくの作成したランキングは、クラス内の力関係を示すものだが、なにも筋力だけが物を言うわけじゃない。

〈腕力〉〈頭脳〉〈イカレ〉〈コネ〉〈オーラ〉〈愛嬌〉の六個を、ぼくは用意している。またランキングは、各項目の数値を単に合計したものじゃない。最終的には、ぼくが全体的な印象で判断してる。

あらためて考えると、〈腕力〉〈イカレ〉〈コネ〉の重みが大きい気がする。「頭脳3」のやつと「コネ3」のやつがいたとする。〈コネ〉とは「コネクション」、つまり人脈のことなのだが、少し頭が良いよりは、喧嘩の強い奴が友達がいることのほうがぜんぜん上になる。

そうした能力値をまとめたレーダーチャートを、クラスの男子全員分つくっている。処世術を考える上での基礎資料だ。なお、女子は女子で、まったく別のものがあって、項目は、〈顔〉だとか〈スタイル〉だとか。こちらは、ぼくの趣味以外の何物でもない。

暇なやつだと思われるかもしれない。当たっている。ぼくは授業をあまり聞いていない。当然、成績もよくない。

いつの間にか指先に力が入っていたようで、押さえていた頁がふやけていた。ぼくは汗かきだという自覚がある。かといって、肥満体型なわけではない。むしろ、痩せ型。背も平均以下。

なのに、どうも、汗が出る。奇妙なことに、それは指先に顕著だ。昔はそうでもなかったのに、どうしたことだろう。あまり言いたくないのだが、シャープペンを握り続けていると、滴となって流れることもあるくらいだ。少々異常に思う。これこそ、かっこうのネタ、奴らにばれたくない。

今のペンは握る部分がゴム製、大丈夫。
――なんて、ひさびさに意識した。
実は、この体質が、のちにぼくの運命を変えることになる。


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こういう秘話もあるよ。

わたしのXはこのヒロインの人が支配する世界になってしまいました。わたしの自我は消えているかもしれないけど、よろしくね!

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