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TRUE LOVE(#song10-13 灼熱の紳士)

かもめ回想録 3

千里ヶ浜はその昔、「チリの浜」と呼ばれていたようだ。チリは「塵」を意味する。観光客がゴミを捨てる、河がゴミを運ぶ。お隣の国からも漂流物が流れ着く。
僕はその頃の千里ヶ浜を知らないが、観光客のマナーに関しては、見る限りたいして変わっていないのではと思う。以前ほど汚れていないのは、地元のクリーニング活動の成果、と言いたいところだが、単に観光客の減少のためである。「変化したもの」のうち、誰の目から見ても明らかなものだ。

海の家がひとつ消え、またひとつ消え、かつては海の家同士、喧嘩の原因にもなっていた隣の建物との間隔が、どんどん開いていった。
かもめをたたむまでの十年は、ほとんどが赤字。海の家経営のバブルはとっくに弾けていた。
家族連れで千里ヶ浜に来て、海の家で席を確保、ゆっくり海水浴なんてスタイルはもう流行らない。海の家にあるものは大概、車で持ってこられる。着替えのできるコインシャワーさえあれば、わざわざ海の家を利用する必要はない。他の海の家同様、さっさとたたむべきだったのだ。

誰かが言った。商売以前に夢があるから、たためない。
「夢」とか言葉が出たした時点で、雲行きはあやしかった。矛盾は歪みとなり噴出する。

ここ十年を真実の目で見るならば、かもめじじいの情熱は当初とはまったく違うところにいってしまい、ばあちゃんに隠れ、酒をのむ隠れ家としてかもめを利用している。生ビールのサーバーまで導入した。
ジョッキに生ビールを八分目ほど入れ、その上からウイスキーを注いで飲む。オールタイム飲みたいときに飲む。そんなことを普段しようものなら、ばあちゃんに怒鳴られ、プチ家出するはめになる。

ひと月少しの桃源郷を作り出すためにこの人は、こんな大掛かりなことをして何十人もの人間を巻き込んでいる。商売の大義名分のもとにだ。
バイトの人は、事前に約束した対価をもらうのだから、文句もないだろうが、迷惑なのは親族だ。家の人間だからと、無理やりつき合わされる。
かもめの思い出は美しいものばかりじゃない。泥臭い。むしろ、微妙なもんばっか。

かもめじじいは耳が遠くなってしまい、他人とのコミュニケーションが困難であるため、経営の実務は、すべて娘の海ゆばーばに任されている。これがまた父娘だけあって、特に戦略はないが、マイライフなのだから現状維持でとにかく続ける、という方向性が、見事に一致する。

海ゆばーばの原動力は、酒でもなければ、金でもない。かもめこそが生きがいであり、アイデンティティーであり、存在理由なのだから余計タチが悪い。
その気性は、東尋坊の、切り立ったジグザグの岩のようだ。さらには東尋坊の、断崖絶壁を打ちつける、荒波のようでもある。
一日中、周囲を巻き込み大騒ぎしている。高速で移動する直径十メートルの小型台風だ。なぜあえて、周囲をパニックにしてしまうのだろう?

僕の考察によると、この人は、五分刻みの世界で生きている。平たく言えば、五分後は知ったこっちゃないということ。
五分の間に、喜怒哀楽のサイクルを八十回転させていると推測され、その回転により、魔女海ゆばーばたるべき莫大な魔力を生み出しているのだ。よって事件がなければ、自分で作り出す。

基本、怒っているが、客引きの際は「喜」を強調する。赤ん坊など発見しようものなら、「まあ、かわいい赤ちゃんでちゅねえ」満面の笑みを見せ、歩み寄る。客が苦笑いしながら去ると、「チッ」笑顔は一瞬で消えている。

この人とは二十年近く海の家で顔を合わせているはずなのだが、五分と落ち着いて話をした覚えがない。理由はシンプル。僕の顔に、0円と書いてある。正式なバイトであれば、調伏すべき式神×号と映っているであろうが、それもないため、さっさと切り上げ、どこかにマシンガントークをかましに行く。子供心に大変さびしく思ったものだが、その打算こそ、海ゆばーば最大の武器。
利益を出せないのは、全体として見た場合であり、五分間の個人プレイで、この人ほど利益を叩きだせる人はいない。

マシンガントーク、猪のごとき突進力、組合の存在意義を無にする価格操作、がむしゃらに笑いをとりに行く若手芸人のスピリット――これらの総合力により、綺麗なお姉さんがそっと微笑みながら立っているのと同等の効果をつくり出す。
我々が彼女を、海ゆばーばと崇めるのには、多分に畏怖の念が含まれているのだ。

止まらなくなった後期かもめの戦力を、海ゆばーばを頂点とするヒエラルキーから見てみよう。なお、かもめじじいはヒエラルキーから飛び出してしまい、精霊扱いだ。基本、酒を飲んでるか、裏手のコンクリートで牡蠣貝の殻を叩き割ってる。海ゆばーばと口喧嘩していることもあるが、その内容がわかったことは一度もない。

海ゆばーばの第一戦力は、息子とその嫁。僕より八つ歳上の息子は、いつか本格的なモヒカンカットで現われて以来、消息を立っていたのだが、精悍な顔つき、焼けた肌、現代の海の男となって帰ってきた。ダルシムが目指すビーチボーイズの完成形かもしれない。おまえは日焼けサロン行ってこい!

嫁も侮れない。勝気で、さばさばしていて、美人である。ときどき飛び出すヤンキー口調は、過去の面影をちらつかせ、他人は本能的に従う。海ゆばーばは、私の若い頃を思い出すと言うが、ちょっと違うと思う。

ヒエラルキーの中間あたりに位置するのが、パートのおばちゃんたちだ。毎年、同じ顔。灼熱の厨房のなか、いつもいる。素性はわからない。彼女らはひょっとしたら、古くから千里ヶ浜に住まう妖怪たちなのかもしれない。

言うまでもなくヒエラルキーの底辺は、バイトという名の兵隊である。不況になろうとも、数はまるで減らない。海ゆばーばが、減らさないのだ。
バイトは毎年、ほとんどの人間が入れ替わるのだが、不思議なことに彼らは自然と集まってくる。求人広告など出していない。どこで調べたのか、放っておいても、働きたいと電話がかかってくる。ひと夏を海辺で過ごすという軟派なイメージが、色気づいた地元の高校生にとって魅力的なのだろうか。――甘い。甘過ぎる!
僕は見てきた、壮絶な光景を。

かもめで繰り広げられる猛暑のトライアスロンに、柔道をやっていた屈強な男子でさえ、滝のような汗を流し、表情を歪め、こう一言、「死ぬ」。
戦士は売店を通りかかるたび、飢えた目で清涼飲料を見つめるが、許可なしに手をつけることは許されない。追い討ちをかけるように、海ゆばーばが次の仕事へと手招きする。その人は、仕事量を三倍にする。
なかには、意識が朦朧としたのか、やかんから麦茶を直に飲もうとして、沸かしたての熱湯を浴び、転げまわった者までいる。

そうして考えると、柔道部員より手加減されているとはいえ、あの夏、夏実と瑞穂が軍隊生活に耐えることができたのは、相当なことなのだ。同じ夏、ダルシムだって志半ばで散っている。
僕? 長いかもめ生活のなか、のらりくらりとヒエラルキーのなかを泳いだ。

僕の場合は、精神的にキツかった。年上のごついの(ほとんどがヤンキー)に混じるのは恐ろしかったし、微妙な立ち位置、立ち回り方は、周囲に対して、どうしても気が引けてしまった。
それでも大学生になれば、遊びついでに手伝っているような、自然な雰囲気を醸し出すことができるようになり、居心地の悪さはなくなった。

あのときも悠々自適で、ダルシムを横目に見ながら適当にやっていた。こいつと一緒に働くことになるなんて想像だにしていなかったが、その後の人生会議の進展を考えると、大変意義のあることであったと言える。

そういえば、当時、海の家に出かけなければ、昼飯にありつけないという事情もあった。カウンターの上の見上げた先、板に打ちつけられたメニューの数々を、僕は思い出す。
不思議なやつもあったな……。「UFOラーメン」って、どこがどうUFOだったのだろう。
人生会議のいい議題だと思い、そこにいるダルシム、つまり六年後のダルシムに話しかける。
「ダルシムさ、UFOラーメンってあったじゃん。あれってさあ、」言うや否や、「あのラーメン、めちゃめちゃ不味かったんや!」
また飛び火したっ!
ラーメンもNGワードなのか……。彼は何度でも着火する。

「独特の味があって、好きだったけど」
「本当は残そうと思ったんや!」
こうなると彼は、人の話を聞いてくれない。
流れから、だいたい、あのシーンだと想像できる。

たしかお昼を食べるときにダルシムとタイミングが重なって、僕ら二人の分を夏実が作ってくれたのだ。彼女は厨房のおばちゃんとも仲良くなっていて、いくつかのメニューを作れるようになっていた。僕はカレーうどんだったかな……。
「でも、なっちゃんが作ってくれたで、俺が、おいしいって言うやろ」
「うん」
「普通に無視されるんやで」
「そうだっけ」
「プラスポのほうだけ見て、ケンシさん、おいしい? よかったー、とか言うんやで」
「あんま意識してなかったけどな……」
そういえば、あの後、厨房のおばちゃんにも、「ケンシくん、なっちゃんのこと好きなの?」なんてはやされた。周囲の反応には、どうも温度差を感じる。
恋愛感情がまったくなかったのかと言われれば、どうだろう……。嬉しかったことは間違いない。ただ一歩、踏み込めなかった。
経験値が不足していたから? 好奇の目にさらされていたから? それとも、海ゆばーばの忠告があったから?
「ダルシムは夏子にベタ惚れだったってわけね」ここで横のギャルが口を挟んだ。
夏子?
「いや、そうは聞いてないし、そこまでじゃなかったんじゃないかなあ」
「アンタは黙って! これは、そういうことなの」
黙ってって……。この子は、「1」か「0」で断定しなきゃ気が済まないのかな。シンプルというか、若いというか。

享年十八歳。名前はひらがなで、まふゆ――。

旅程一日目――東尋坊 3

「あのときの俺の気持がわかるかー!」
こいつ、何回言うんだ。
「あっはっは」幽霊は、緊張感なく笑う。
今でこそこんな感じだが、最初は本当に怖かった。

最初に女の子の声が聞こえたのは、あの夜、雄島からダルシム宅に戻る車のなかだった。小さく、「ねえ」とか、「ちょっと」とか、車の走行音と同じ程度の大きさだった。そのときはぜんぜん聞き取れなくて、一時的な耳鳴りかと思った。寒気はやはり止まらない。

ダルシムに、ちょっと明るい曲を流そうかとお願いすると、昔に流行った、やたら元気なダンスミュージックをかけてくれた。ボーカルがイェイ、イェイ歌っていた。このときばかりは、彼のセンスのなさに感謝した。

車から降りて、ダルシムのアパートへと歩く最中、「ねえ、ねえ」と、聞き取れるくらいにはっきりと声がした。相当疲れているんだなと思った。
福井の夜はとても静かで、靴の音がよく響く。階段をのぼりながらダルシムに、「なんか寒くない?」と話しかけると、「なんかついてきたんやかいか」と返ってきたので、「オラーっ!」と言った。いま思えば、まだ元気があったんだな……。

部屋では、さっそく毛布を貸してもらい、肩から羽織るようにしてかぶった。音がほしかったので、ダルシムにお願いすると、オフコースか林檎さん、どちらのDVDにするか選んでくれと言う。最初、林檎さんを指名したが、ステージ衣装が血のついたナース服だったため、「ちょっと違うかな」と言った。
次に、いつの時代かさえわからないオフコースの映像を見る。
「やっぱ、いいよなー、プラスポもわかるやろ」
「そうだね」力なく答える。
「わたし、この曲すきー」なんかもう普通に声がした。
本当に、言葉にできない……。
 
部屋のなかに、うっすら女の人の姿を見たとき、冷蔵庫から缶コーヒーを取り出そうとするダルシムの背中に、「えっと質問があるんだけど、今回、福井と京都を二人で旅行するんだよね。で、今日は東尋坊へ行きましたと。明日はまた二人で京都に行きます。まあ、一緒に遊んでくれる女の子でもいればいいんだけど、今回は残念ながら男二人です。僕の認識に何か違う点があったら教えてもらえるかな」と訊ねた。
「ああ、そうや」
「本当にそう? ささいなことでも構わないんだけど」
「今日は雄島にも行ったやん」
「ごめん、先寝るわ」
布団をかぶって、何も聞こえないふりをした。ずっと南無阿弥陀仏と唱えた。明日からは清い心で生きていこうと誓った。
二度と利己的な振る舞いはしません。もうカップルを見ても死ねばいいのになんて思いません。僕は英国紳士ではありません。嘘をつきました。まあ心の持ちようって意味だったんですけど、さっきジョブチェンジしました。いまは邪の入る余地のない敬虔な牧師です。
そうだ! 今年の夏は、ご先祖さまのお墓参りにいかなくちゃ!

「南無阿弥陀仏」のリフレインは、意外と催眠効果があったようで、僕はいつの間にか眠りに落ちていた。
時計を見ると十時過ぎ。寒気はおさまり、気分も落ち着いている。レースのカーテンから柔らかな光が差し込んでいて、昨晩の悪夢がすべて嘘のようだった。僕は起き上がる。

部屋にダルシムの姿はなく、代わりに控えめな音量のテレビと目が合う。画面には観光地の映像が映っており、若いカップルが満面の笑みでインタビューに答えていた。僕はブチっと電源を消し、「FUCK!」と言う。壁際のステレオをいじり、UKロックをガンガンに流した。気分が乗る。ベッドに腰かけ足を組む。

トイレから出てきたダルシムに、冷蔵庫から勝手に失敬した缶コーヒーを見せ、「待たせたな」と完全復活を告げた。
「おお、治ったんか」ダルシムが同じ銘柄の缶コーヒーを片手に言う。なんでトイレから缶コーヒー持って出てくるんだ?
ダルシムは僕に気を遣い、この時間までそっとしておいてくれたようた。
僕は言う。「おいおい、早く起こしてくれよ。時間ないんだからさあ」

旅程二日目が慌しくはじまった。遅れを取り戻さなければ。さあ、行こう。
ダルシムが運転席に乗り込む。
続けて僕が助手席に乗り込……もうとしたときに、「あんたはこっちでしょ!」後部座席に、いた!
「ダルシム、やっぱり俺、調子が……」
「待って! わたし、何するかわからないよ!」
ぞくっとした。
「どうしたんや?」
ダルシムには聞こえてないのか?「いや、何でもない……」
ここで事を荒立ててはいけないと直感した。助手席のドアを閉め、恐る恐る後部座席のドアを開く。冷凍庫を開けたときのように、ひやっとした。
「なんでうしろなん?」ダルシムが言う。
「だよねえ」
自然な流れで前に戻ろうとする。
「事故起こすから!」
ぞっとした。
ダルシムに言い訳する。「スバルの後ろって、座ったことないからさあ。気分転換にと思って」
「あんた、言い訳下手だね。調子が悪いから横になれるように、とか言えばいいでしょ」
「ほおかあ、了解、了解」
「まあ、いいけどさ……」
この女、気が強いな。一瞬、冷静になった。

当然、車は走り出してしまった。この状況はヤバイ! ドライブの最中、逆らえないってことじゃん! 冷や汗が出た。
ダルシムに話すことは危険。雄島で鈴の音を聞き、必死に逃げ出したときの彼が本当の姿。普段は鈍いだけで、脳に怖いと響いたときのパニくりようは半端じゃない。幽霊に何かされなくとも、自主的に事故を起こす。

幸い、彼に幽霊は見えていないようだ。ここは自分で考えるしかない。
なぜ、僕だけこんな目に……。ダルシムには霊感がないのだ。きっとそれは、僕のように繊細な人間だけが持ち得るものなのだろう。

――そして現在にいたるのだが、どこへ向かえだの、速度を百キロ以下に落とすなだの、悪霊らしい命令があるわけでもない。せいぜい、かもめの話を聞きたがるくらい。
たまにダルシムに振ってと言うのでそうするが、彼のアドレナリンが過剰分泌されるくらい、たいした問題ではない。幽霊は笑っているだけだ。

思い切って訊いてみる。
「ところで、最初なんか脅された感があったけど、具体的に何ができるの?」
「えっ、それは……いろいろよ」
「ふーん」
元々、気が強いってだけで、この人、無害なんじゃないかな。あとは――、
「ダルシム、寒くない?」
「ぜんぜん」
僕だけか……。寒くて震えが止まらない。いいんだ、俺ひとり犠牲になれば。
 
幽霊がついてくる理由――単に僕らのことを面白がっているのだ。
しょうもない話ばかりだと思うが、年も離れてるし、新鮮なのかな。
……ん、生きてたら、彼女いくつなんだろう。
「わたし、海ゆばーばのキャラ好きだなー」
その人はこちらを見る。
微笑んだ顔に……ちょっと照れる。
魔性の笑み、プラス、キャミソールだ。人類の半分は逆らえない。
結果、促されるようにダルシムに話を振る。すると、こういうストーリーが展開される――。

かもめ回想録 4

ぼくたちの夏の記憶は、女の子の水着、花火大会、かき氷など、夏の風物詩に関するものは少なく、海ゆばーばの圧倒的な存在感によって軍事占領されている。
「海ゆばーば」とは、今はなき海の家かもめに存在した伝説の魔女。多少、脚色されているかもしれないが、ほぼ誤差の範囲だろう。

日の出前のかもめ。二階につながる階段の前に、魔女はうっすらとその姿を現す。はじめは霞のようで、あまりよく見えないが、表情は何かを睨みつけているかのようだ。
外が明るくなってきた。鳥の鳴く声もする。まだ動けないのか。
いま、魔女の姿はだいぶ濃く、線も、はっきりとしてきた。眉間のしわは深く、完全に怒っている。青い電気が魔女の周りに走った。

日の出時刻、魔女は完全体になる。足かせが外れ、火の玉のように飛び出す。足は床下から三十センチほど浮いている。
ものすごいスピードだ。移動の軌跡がどんどん魔女のテリトリーになる。前方に衝撃波を放った。そこも魔女のテリトリー。

動きながら、口からは常に超音波が出ている。その波動は、中級妖怪(パートのおばちゃん)への指示、人間従業員(学生アルバイト)への怒声、お客様(通りすがりの観光客)に向けたトークに聞こえなくもなかったが、たとえるなら、ギタリストがワウペダルをぐいぐい踏み込んでいるようであり、傍受するのに困難を極めた。

また、海ゆばーばは、動いていないものが気にくわないという特性も持つ。本人が時速五百キロで高速移動しているため、まわりがスローモーションに見えるのだろう。
よって人間従業員は、やることがなくても動いていなければいけない。さもなくば、「あそこの砂を汲んでおいで」と、悪魔の指示が出る。日によっては、客より従業員のほうが数が多いため、これはかなりの難易度だ。

皆、動いていなければ、スナイパーの標的になるといわんがばかりに無駄に動き、炎天下の過酷な役務に疲弊した。
人間従業員は、日の高い間、止まることを許されず、心身はすり減り、同時に魂も磨り減る。思考は止まり、自分の名前すら忘れる。「なあ、俺の名前なんだっけ?」「んん? ワカメとかでいいんじゃね?」
次のステップでは、髪が短くなる、首からタオルが生えるなどの超常現象を起こす。やがて、やかんで熱湯をがぶ飲みするようになる。どんどん妖怪化する。
海ゆばーばが言う。「あそこの砂を汲んでおいで」
「はい、よろこんで!」

海ゆばーばが日没と共に消えてしまうまで、大体はこんな感じなのだが、そのなかでもハイライトというべきシーンがある。どの瞬間もハイライトといえばハイライトだが、ここではダルシム・セレクトをお届けする。

われわれの人生会議など、比較にならないほどの質量とエネルギーをもった《超・人生会議》だ。経験したダルシムは語る、「ああ、俺、このまま、千里ヶ浜の砂になるんやと思ったわ」

客がすべて帰り、片づけが終わって日の沈みかけたころ、わずかな時間ではあるが、海ゆばーばは動きを止める。営業を終えたかもめで、木の椅子に腰かけ、大きなテーブルに肘をつき、渋い顔で夕日を眺める。その表情は、苦渋、辛酸といった類のもの。かもめに巡っていたのは海ゆばーばのエナジーだけで、キャッシュは巡らなかったためだ。

浅い角度で差し込む光に照らされ、鮮明になった深いしわ。夕日を睨みつけ、なんなら吸い込んでやろうかといった鋭い眼は、人生の重みを感じさせる。
手下どもは思うのだ。いま自分は半妖怪化しているが、夏が終われば、魔法はとける。やがて日常に戻り、いずれは社会に出なければならない。この魔女に、何か学ぶところがあるのではないかと。
吸い寄せられるように魔女の前に立ち、進路について、人生について、相談を持ちかけてしまう。ここで注意しなければならないのは、魔女は身体が動いていないというだけで、エネルギーは内部に巡ったままだということ。いわば、噴火待ちの活火山。

魔女は、「まあ、座らんちま」と、日中見せることのない柔和な面持ちで、向かいの席を勧める。手元にはまるで、大きな水晶があるかのようだ。彼女にも考えがあり、人生の厳しさを若者に説いて聞かせるのが、役割のひとつだと認識しているようだ。

海ゆばーばがかもめで放つ言葉には、魔力がある。重みが違う。かもめこそが人生なのだから。超・人生会議は、名こそ「会議」とつくが、対話ではない。マイ・ライフを精神波に変換し、相談者の脳天に注入する「技」なのだ。

その結果、相手のなかで何が起こるのかは、誰にも想像がつかない。なんらかの心理的な制約となったり、スタミナの増強となってあらわれたり、蚊に食われやすくなったりする。
ある者は不良をやめ更生し、ある者はさらなる悪の道に突き進んだ。ある者は夢をあきらめ、ある者はその日のうちに夜汽車に乗り、東京へと向かった。ダルシムは避雷針のごとく受け流してしまった。

しかし、どうだろう。真実の目を持ち、かもめじじいの海の家パラダイス化計画を見切った僕は思うのである。
あなたの人生が厳しかろうが、他人には何の関係もない。自分の行いが自分に返ってきているだけではないか。他人に、将来ある若者に、余計なことを言うべきではないだろう。
僕は逆を行く。決めつけない。ユーモラス。成せばなる。何でも足してみればいい。いうなれば、水のような柔軟性をもった、ゆるやかな対話のなかにこそ、真実はあるのではないか。海ゆばーばの「超・人生会議」と区別するため、そのメソッドを「真・人生会議」と呼ぼう。

魔女の行いなど、真・人生会議によればこうなる。
火の玉を吐くな。時速五百キロで移動するな。あんたの人生に他人を巻き込むんじゃねえええ!

「きゃははは」と幽霊笑う。この人、どうなんだろう……。

奇妙なドライブ――ある現在 4

そしてこの幽霊、つっこみ属性を持っている。
僕がダルシムに、「日焼けサロン行ってこい!」と発言した際には、
「あんたも白いよ。一緒に行けば」
ダルシムの発言、「俺は焼きそばを食べるために生まれてきたんや」の際には、「じゃあ、もう生きてる意味ないわね」
容赦ない……。

我々に突っ込みが加わるとは、ときに閉鎖的になりかねない人生会議の幅を、押し広げてくれる……じゃなくて、彼女にはすでに、幽霊としての怖さを感じない。
人生会議とは今さら説明するのも気が引けるが、我々の想像力を駆使したただの漫談である。話題をあっちに転げ、そっちに転げ、一瞬の笑いを勝ち取るため、何か思いつくたび口を動かす。

ここまでの道中、出だしのトラブルを除けば(それが大きいのだけれど)、これといった事件はない。我々は人生会議をし、笑い、黙り、缶コーヒーを口に含み、幽霊になじられ、ときに熱くときに寒く、僕に限っては身体的に寒く、ドライブは続いた。

昼過ぎ、国道沿いのラーメン屋に入った。
プラスポ、何も食べてないんやないか、とダルシムが気を遣ってくれ、僕が何でもいいから、あったかいものが食べたいな、と言ったためだ。本当に寒くて仕方ない。
飾り気のないというか、大きなプレハブ小屋というか、壁に大きく「ラーメン」と書いていなければ、それとわからない店だった。

駐車場には、車が一台しか停まっていなかった。間違いなく空いている。引き戸を開け、えんじ色の、のれんをくぐる。
おどろいた店主が、慌てて新聞紙をたたんだ。カウンターの丸椅子に腰かける僕ら。続いて幽霊が、僕の隣の椅子に、後ろ向きに腰をおろした。足を放り出して、スカートを両手で押さえて。それから、「何、見てんの」と、厳しい視線を僕にぶつけた。

僕はラーメンを、ダルシムはチャーシューメンを注文した。手持ちぶさたに水を飲む。少々、居心地が悪い。幽霊に申し訳ない気持ちになる。
表情から伝わったのか、「気にしなくていいよ。それにわたし、ラーメンって、あんまり食べなかったし」
「嫌いなの?」
「太るじゃない。デートでいきなり中華とか連れていかれると、無神経だなって思う」
なるほど。幽霊に教えて頂く。
「プラスポ、大丈夫か」これはダルシムだ。
「なんで?」
「今日はなんか、無口やから」
「ああ……」幽霊としゃべっているから、と言うわけにもいかない。「ありがとう。どうも調子がいまいちでね」

今さらだが、こいつはいい奴である。それに、侮れない。
あの夏だってそうだった。
ダルシムは、海ゆばーばになす術もなく負けたと思っているようだが、僕に言わせればなかなかいい勝負をしていた。男の持つ独特の性質のためだ。
そのひとつは、お昼のまかない時。
従業員の毎日のまかないは、暗黙の了解のもと、その日にあまり出なかったメニューから選ぶ空気があるのだが、「あ、焼きそばで」遠慮勝ちに手を挙げ、男は言う。
「カレーでもええか?」
カウンターの近くをたまたま通りかかった魔女。
「あ、焼きそばで」遠慮がちに言う。
頑として譲らない。

小さなことだが、譲らない。あまりに小さなことにだけに強い。
最初はまだ焼きうどんなどに挑戦する心の広さがあったが、夏実のラーメンの件があってから、より頑なに焼きそばを欲するようになった。
そのうち、何も言わずとも、焼きそばが出るようになる。男はその後の数年間、焼きそば魔人として語り継がれた。

そして、かもめ史に残る、あの対決。
海ゆばーばは客引きの際、自分と相手との温度差を、機械のような精密さで感じ取り、席料を巧みに操りながら交渉する。標準価格(大人八百円)などあってないようなもの。極端な話、客を入れることができれば、二百円だっていいのだ。あとで差額以上を使わせればいい。
「この値段はお客さんだけやからね。他の人には内緒やよ」声を潜めて、海ゆばーばが言う。見習いダルシムが、魔女の後ろについて勉強する。客は満足したようだ。
その直後、別の客が入ってきた。ノーマークだ。ダルシムがつく。海ゆばーばはまだ、先ほどの客にトークをかましている。
少し離れた場所からダルシムが、「このお客さんは割引しなくていいんですか?」大きな声を出した。魔女の顔が固まる。ダルシムの顔が凍る。
数分後、ダルシムは、かもめの裏手に連れていかれる。
「あんたねえ……」火を吹きかけられるのかと思いきや、「くっくっく」
魔女は笑い出してしまった。
ダルシムが勝った。僕は思った。

「ダルシム、やるねえ!」まふゆが楽しそうな顔をする。
「まふゆはダルシム好きだね。あっちに憑いたらよかったのに」なんで幽霊に嫉妬しているのだろう。ダルシムのほうが、なんだかんだ女子にモテるのだ。
「いやあ、あっちはちょっと」
「ああ、どう見ても霊媒体質じゃないもんな」俺もこんなん初めてだけど。
「そうじゃなくて……」
正面でドンと音がした。麺がきたのだ。
カウンターの隅のテレビを見ていた男が言う。「このラーメン、なっちゃん思い出すわ」
いい加減うっとおしい。何回、蒸し返すんだろう。
そう、根がいいやつで、侮れない男なのだが、夏実のことになると、どうも。

あの夏の話は、彼のなかで年々変な脚色がなされているように思う。
この男、本来、細かいことは気にしないタイプで、たいていのことはすぐに忘れてしまう。そう言うと、ポジティブに響き過ぎるかもしれない。ここで言う「忘れる」とは、『必要なことまで忘れる』である。

今回のケースでは、彼のその特性が、たいへん裏目に働いた。
怒りの感情をともなう記憶だけが鮮明で、他はどんどん忘れてしまうものだから、話が変な方向にねじれる。そしてついには時系列さえおかしくなった。あれは大学三年生のときの出来事なのだが、彼は今年から、一年生のときの話だと言い出した。
記憶とは不思議なものだと思う。僕だって自分が絶対正しいなんて言う気はないけど、「いつ」の出来事くらいはねえ……。
さらに言えば、今年の語りは異様に熱い。こういうのって普通、時が経つほど忘れていくものじゃないのか。怖い女子にせっつかれて、僕があえて話を振っているという事情もあるが。

麺をすする。うん、全然うまくない。リピーターなんて狙ってないぜ、国道で長旅してる客がよくわからずに寄る店なのさと、店の方針があらわれていて潔い。
「夏子だけどさ」これ、まふゆ。
夏子? また……。
どうも言葉にトゲを感じる。とりあえずそのことには触れない。
「ダルシム、怒ってるね」
「うん、怒ってる」
「さっき映画館の話してたでしょ。あの前後に、何かありそう」
するどい。
幽霊とは、麺をすすりながら会話ができる。味わう気もしないし、ちょうどいいんだけどね。

===
【おまけ】
オフコース「言葉にできない」

【作者コメント】
誰も気づかないだろうけど、実はダルシムは別の記事にも登場しています。

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