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歌麿38スペシャル (3)

第三話(シノプシス)
 
椿屋で呑んだくれた帰りしな、粂蔵と歌磨が二八そばの屋台で、かけそばを啜っている。
「見かけねぇ顔だなぁ」
「ん?」
「あそこの夜鷹さ」
「結構いい女だ。品があるじゃねぇか…歌さん、ちょいとからかってみるかい?」
二人はかけそばを急いで食べると、女のいる川原へと歩いていった。
「よぉ、どうだい、今夜の上がりは?」
夜鷹がゆっくり振り向いた。その一瞬に目を奪われる歌磨。
「しけた客ばかりさ、冷やかしならよしとくれよ」
「お前さん、綺麗だなぁ…」
「こりゃ、うれしいねぇ、遊んでくかい?」、
「いや、それよりもお前さんを描きてぇ。オレは絵師なんだ」
「歌磨さ。お前も名前くれぇ知ってんだろ。今、江戸中で人気の浮世絵師さ」
「ほぉ、天下の歌磨にそう言われりゃ、悪い気はしないね」
「どうだい、描かせてくれるかい?」
「……」
「なぁ」
「ふざけないでおくれよ」
「いや、オレは本気だぜ」
「夜の帳でひっそりと、生き恥さらして生きてるあたしを、あんた江戸中で笑いもんにしようって言うのかい? 随分とひどい話だねぇ…。あんたが声掛けりゃ誰でも喜んでほいほい描かせるって、そう思ってるんだろう。逆上せ上がった了見だ」
「いや、そうじゃねぇ。お前さんは綺麗だ。綺麗だから描きてぇ、他に理由なんてねぇ」
「お前様、絵師のくせに…どうだい口から先に生まれてきたようじゃないか」
口元に冷やりとした微笑みを浮かべた夜鷹は言う。
「なら、ここで描けるかい?あたしは昼間、世間様を大手を振って歩けるような女じゃないんだ。そこまで言うなら今ここで描いとくれ!」
柳の枝が風に揺れた。歌磨は女の目を見据えたままで切り出した。
「よぉし、分かった。おい、粂!道具もってこい! 提灯も忘れるんじゃねぇぞ」
「…おう…」
提灯を何灯も立て、夜鷹は暗い河原で美しく、それはそれは美しくぽっかりと浮かびあがった。
「お前さんは綺麗だ、綺麗すぎて涙がでてくらぁ…」
「一生の想い出になりそうだねぇ…」
歌磨は月灯りの下で、夜鷹を描いている。
夜鷹の顔は淋しげで悲しく、そしてゾクッとする程美しい。
粂蔵は少し離れたところで座り込み、呆れ顔で煙管をふかして月に煙を細く吹きかけた。
 
夜鷹の浮世絵。
女の美しさと悲しさが同居した素晴らしい作品。
 
投げ込み寺の侘しき無縁仏に雨が降っている。
卒塔婆が乱雑に刺さっている小さな裏手の丘。ここは、下級遊女たちの亡骸の埋まっている場所だ。
「すべては空に帰して跡を残さぬ人の世に、お前たちのその似顔、せめて永世に残しておこうじゃねぇか…お前ら皆、観音様よ」
歌磨は自分の愛する〝女たち〟の末路を憂いていた。終いが、こうなるのは端から承知している分だけ、遊女たちは儚く愛しい存在だった。
遊女たちを描いた作品群をコラージュしていく。
 
 
判じ絵。コマ絵のアップ。
粂蔵の声。
「菜(な)が二把(にわ)、矢(や)で沖(おき)、田(た)、難波屋おきたって訳だ。くっくっくっ…これじゃあ、お上も取り締まれねぇなぁ…こいつは洒落が効いてるねぇ」
画面は、難波屋おきたの絵を捉えている。
「ちょいと、あんたのせいで毎日目が回るような忙しさだよ。どうしてくれるんだい」
と言いながらも、歌麿に団子をサービスする。歌麿と粂蔵は、ニヤニヤしながら茶を啜っている。
「天下泰平…いいじゃねえか。たかが絵師、誰を描こうと何を描こうとよ」
 
NA
この頃の歌麿は、まさに絶頂期であり、「婦女人相十品」「当時全盛美人揃」
「針仕草」「青桜七小町」「高名美人判じ絵集」など、次々と快作・名作を
世に出し、歌麿の浮世絵は庶民にとって最も身近な芸術というより娯楽となっていた。
 
吉原・扇屋の裏庭で行水をしている花魁の花扇。
午前の木漏れ日にその姿体が美しい。
朝帰りの歌磨がふらふらと歩いていて目を奪われる。
(何てぇ、軀だ…こんな白い肌をした肉付きのいい女は見た事がねぇ…)
戸板の隙から覗く事を止められない歌磨。
思わず懐から筆を出して描き始めようとするが生憎と紙がない。
そこで戸板にデッサンを始めてしまう。
『ちっ…こんな女、生き手本にして描けりゃ、一世一代の錦絵が描けるんだが…』
その時、絵に夢中の歌磨にざばっと水がかけられた。
 
覗きがばれて女衆に囲まれ正座している歌磨。少々分が悪い。
「ふざけるんじゃないよ! ちょいとばかし絵が売れてるかどうか知らないが、私を盗み見して描こうなんて百年早いわ」
「頼む。お前さんの柔肌を拝みながら生き手本にしてぇ。そうすりゃ江戸中の奴らがひっくり返る様な錦絵が描けるんだ。いや、描く。描いてみせる!」
歌磨は土下座せんばかりにして必死に口説き落とそうとした。
「ふん、そこまで言われりゃこの扇屋の花扇、後には引けないねぇ…」
「なら…」
「五十両持っといで」
「…えっ…五十両って、お前ぇ…」
「あたしの錦絵で一儲け出来りゃ安いもんさ。それとも何かい?私の軀拝むのに五十両は高いって言うのかい?
 さっきお前さんの口から出た言の葉は本当に心の内から出たのかい?」
「分かった!耳揃えて持って来てやらぁ。そん時ゃ、手前ぇ、描き倒してやるからな!」
歌磨はその場を逃げ出すように駆け出した。
鼻で笑い、見送る花扇であった。
 
その日、蔦屋の奥座敷。
「歌さん、そりゃべらぼうだ」
「頼む!今、あんたが苦しいところなのは分かっている、分かってはいるが歌磨一生の頼みだ。
 その代わり今まであんたが見た事もねぇ錦絵描いてみせる」
「一枚二十文の浮世絵の生き手本に五十両払ってたら元が取れねぇよ。歌さん、他にも綺麗な女はいくらでもいるだろう」
下げた頭を上げると歌磨はすっと立ち上がった。
「そうかい、分かった! 商いは大切だ。この話忘れてくれ。他で描く。長ぇ付き合いだったな」
「おい、チョ…チョッと待ってくれ、歌磨!」
「何でぇ」
「出すよ…出します。出しますが…お前ぇさん…つまらねえもん描いて来たら只で済まさねぇよ」
蔦重の顔が凄んだ。
「ありがてぇ。任せてくれ」
 
歌磨は五十両入った包みを扇屋へお千代に届けさせた。
煙管を片手に湯上がりの花扇がおっとりと出て来た。
お千代は茶屋の玄関口で、場違いな自分がどうしようもなくいたたまれない。
「歌磨師匠に言付かってお持ちしました」
そっと包みを三和土の上に置いた。
「ほんとに持って来たのかい。馬鹿な男だよ、全く。五十両あればどんなお大尽遊びが出来る事か」
周りにいた女たちもつられて笑った。お千代は胸の中がざらついてきた。
「…お姐さん、あたしは…栃木の巴波川の生まれです…」
「へぇ…遠くから来たもんだ」
「…歌磨師匠に一枚だけ描いて頂きました…人生が変わりました…あたしがこの江戸で生きていた証が残りました…あたしみたいな者でも生きていていいんだって思えました。それをあなたは…あなたには五十両払ってでも歌磨師匠は描きたいとおっしゃる。あなたは江戸で一番の果報者です。…このお金は置いていきます。どうしてもお受け取りにならないなら直接、歌磨師匠にお返し下さいまし」
精一杯それだけ言うとお千代は深々と頭を下げ店を飛び出した。
足元に残されたその包みを花扇はじっと見た。
 
歌磨は茶屋にいた。夕刻を過ぎそろそろ吉原が賑わいを見せている。
漆の盆に置かれた杯をぐいと煽っている。
襖が開く。花扇が着飾った花魁姿で立っていた。
「おう。待ってたぜ」
五十両の入った包みをすっと歌麿に滑らす。
「足りませぬ」
「ふざけるんじゃないよ、五十両きっちり包んであるはずだ。よく数えてみろ」
「私、数なんて数えられませぬ」
「何!」
「よく考えましたらこの花扇、錦絵の生き手本になるのに五十両、安すぎます。値段などつけられませぬ」
「手前ぇ…俺をからかってるのか」
花扇は三つ指をついて歌磨を見つめた。
「要りませぬ。一両でも受け取ったら、この花扇の女が下がります。好きなだけお描き下さい。私を生き手本に江戸中の男衆が狂うような錦絵描いてくだされ」
「…!」
 
椿屋は今夜は客もなくひっそりとしていた。
女将はぬる燗を付けながらお千代に優しく言った。
「諦めな。あんたは女の一番いい時を歌さんに描いてもらえたんだ。それでよしとしなけりゃぁ、バチが当たる。あの人は決して一人のもんにはならないよ。だから歌磨なのさ」
お千代は女将の方に少し悲しそうに微笑んだ。
 
戸を閉めて薄暗い部屋。
歌磨が蝋燭を何本も立て火を付ける。
花扇はそっと歌磨に背を向けると襦袢を肩から外した。柔らかな衣が真っ白な背中を滑り落ちていく。
息を呑む歌磨。
 
歌磨は自らの着物をはだけて上半身裸になった。そして絵筆を取ると口の中でたっぷりと湿らせ筆先を女の背中に走らせた。
その筆の動きに一瞬女の軀に電気が走る。
「感じてもいいが、気やるんじゃねぇぞ。やっちまったら描けなくなる。その際々のところを寸止めだ。そこを俺が描いてやる」
筆の動きは止まらない。女は必死に感じるのを抑えているが歌磨の筆使いの柔らかさに腰から砕けそうになっている。
「歌磨、お前様は本当に悪い男だねぇ…」
「黙ってろ。気が散るじゃねぇか」
歌磨の筆は背中だけに留まらず二の腕の脇からたおやかな乳房の輪郭をなぞっていく。
怪しく扇情的な音楽が男と女の匂い立つ様な色気を際立たせていく。
「こうやって俺の五感全部使ってお前さんの軀を筆に覚え込ませてるのさ…」
「ああ…ひどい…これじゃぁ私が先にどうにかなってしまう…」
女は白い首を長くしてのけ反らせ全身を震わせていく。
歌麿の目が怪しく光る。

第4話
https://note.com/hanegi_hajime/n/n0224fb531d9b
 

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