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ジュディス・ネルソン

ジュディス・ネルソンがこの世を去ってからもう7年になる。アルツハイマー病で亡くなったのを知ったのは彼女が録音したCDを検索していた時だった。「ASEB」というサイトに、「Judy and Alan Nelson」というブログがあって、彼女がアルツハイマー病を患って介護の後に亡くなったエピソードが記されていたのだ。

http://aseb.org/judy-and-alan-nelson/

以下、エピソードの抜粋を拙訳で記しておく。

「妻の変化に気付き始めたのは12年前のことだったとアランは言う。『ことの発端をいつも思い起こすんですが、これは困ったなと認識したのは2000年のことでした。私が答えたばかりなのに、彼女が同じ質問を何度も繰り返すのです。あとはご想像の通り、難しい状況となりました。劇的なことは何もありませんでしたが、確実に彼女の精神は後退しました。』 」

クリストファー・ホグウッド(彼も5年前に脳腫瘍で亡くなった…)のメサイアを初めて聴いたのは大学1年くらいの時だったと思う。ヘンデルという、他のバロック時代の作曲家に無いポップさとスケール感が気に入って興味が湧いた。今聴くと前時代的で重厚なクーベリックとベルリン・フィルの「水上の音楽/王宮の花火の音楽」が初体験だったからかもしれない。代表作を聞きかじる意味で、序曲も入っていない1枚の輸入版CD「メサイア」を買ったのが、オワゾーリールのホグウッドの抜粋盤だった。当時はそれが古楽器による演奏だとさえわかっていたか怪しい。

オペラ歌手の声音と声量に慣らされた耳に、ビブラートを抑えて自然体に近い形で歌うアリアがとても新鮮で、さらに歌詞が英語だからわかりやすかった。わざとらしさが何もなかった。こうやって歌っていいんだよね、と思った。始めはポール・エリオットのやエマ・カークビーの澄んだ声に魅せられた。抜粋盤だったので、しっとりと愁いを湛えて歌うもう一人の女性ソプラノの存在はまだそれほど気にかからなかった。

ホグウッドの捨子養育院全曲盤を大枚(5,000円は学生にとって覚悟が要る)をはたいて買った時、ジュディス・ネルソンというソプラノの存在感を思い知らされた。ホグウッド自らの解説に感銘を受けながら、彼女の歌うアリアやレチタティーボを聴いていくと、慈愛に降り注がれる感覚に襲われた。歌詞と音楽、声がこんなにマッチすることってあるのだろうか?古楽界ではエマ・カークビーの方が有名だが、このホグウッドはメサイアの最も重要な部分を担う第一ソプラノをジュディス・ネルソンにしたのだ。「Rejoice Greatly, O Daughter of Zion」「But thou didst not leave his soul in hell」「How beautiful are the feet」、そして第3部の「I know that my redeemer liveth」は極めつけだ。

その後、ますますヘンデルにのめり込み、ホグウッドのヘンデルの伝記を読んだ。様々な挿話をちりばめられており、今思うとボズウェルのサミュエル・ジョンソン伝を意識して書かれていて、ホグウッドのヘンデルへの傾倒を物語っている。ある老婦人の肖像画とその下に記されたエピソードを目にした時、ジュディス・ネルソンの歌声とともに僕の感動は頂点に達した。

「メアリー・ディレイニー。メサイアのI know that my redeemer liveth(私を贖うものは生きておられる)を聴いた時、その年老いた彼女の頬には涙が伝っていた。」

ヘンデルの長年の支援者であったメアリー・ディレイニーは、すでにこの世を去ったこの偉大な作曲家の傑作を聴いて何を思っただろう。
そのことが重なって、今は亡きジュディス・ネルソンの歌声を聴いた時、僕の頬にも涙が伝うのだった。

あの素晴らしいレチタティーボやアリアの数々を遺してくれたことに感謝するとともに、その記録と功績を忘却してしまう歌い手のことを思うと、何ともやりきれない気持ちになる。

ブログは続く。「『ASEB(イーストベイ・アルツハイマー病介護サービス)の誰もがジュディに特別な関心を寄せているように感じました。』アランは続ける。『彼らはジュディがかつて歌手だったことを知っていたのです。私が彼女のCDを持っていったらそれをかけてくれました。そしてメサイアを歌うジュディのDVDを私が持っていくとそれを観賞してくれました。彼女に対しては支援の手を惜しまず、彼女が誰であったのか、彼女が何を成したのかに敬意を払ってくれていました。』」

ジュディス・ネルソンは自分の歌うメサイアを聴いて喜んでいただろうか。

それでも、彼女は後世に残る素晴らしい歌声を置いていってくれた。僕はそれを聴く度に思う。ああ、彼女はこの歌声とともに永遠に生きているのだと。

https://youtu.be/GCpej4VhfPM

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